『猿の惑星:新世紀(ライジング)』/個人的な体験

2014年9月24日

猿の惑星創世記

 

★★★+(3.5/5)

 

前作『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』から10年後の世界。ウィルスが蔓延して世界中で多くの人間が死滅してしまった。エイプ(猿)達はひっそりと山の中の森で暮らしていたが、人間達にはどうしてもその森に入らなければならない理由があった…。

 

 

エイプのリーダー・シーザーによる選択が常に苦しいものとして描写されているのは、前作での特筆すべくシーン、檻の中にいるシーザーと飼い主であるウィル(ジェームズ・フランコ)との決別シーンから引き継がれているわけだけど、単純な「仲間のため選択」という構図から、だんだんと「普遍的な問題提起」としての描写に移行していく様子が、物語自体の壮大感ともリンクしていき、ああ、これが『猿の惑星』独特の暗さなんだよねと…。英語タイトル(『DAWN OF THE PLANET OF THE APES』)を読めばまさに夜明けを語っているように、とにかく冒頭から終わりまでの薄暗さには名状しがたい緊張感が存在するのだ。

 

噛み砕いてしまえば、僕にとっては理想と現実という話なんだけど、例えばサンデルの『これからの「正義」の話をしよう』のような共同体とその外部を巡る問題、それこそ理想的な解なんて存在しないような状態の中で、人間やエイプ達が右往左往する姿が描かれていて、心で感動するだけでは絶対に物足りないような作品になっていることは確かだ。ある意味、シーザーはその圧倒的なカリスマでのみでエイプ達を統治してきたわけで、彼の持つ理念というものはあくまでも「個人的」な体験からでしか説明できない部分から成り立っている。だからこそ、そのもろさというのはやはりその理念を共有できない他者とぶつかりあった時にこそ顕在化するのだ。

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

「個人的」体験から普遍性へとつながるような意志とその背景描写こそが、物語としての本質(面白さ)ではないかと僕は考えていて、その逆に、例えば『マンデラ 自由への長い道』のような同じく「カリスマ」を描いたような作品では、その歴史的事実性ゆえに、なかなかその「個人的」な内面というのは描きにくいのだろうなと感じてしまう…。事実的な歴史を描くような映画において感情をむき出しされるほど拒否反応を起こしてしまうのは、僕にとっては必然的なことだったりする。だからこそ、この『猿の惑星』物語としてのシーザーの体験というのは、その物語の中ではとてもリアリティなものとして感じられるし、『ダークナイト』のような高揚感も生まれるのだ。

 

『マンデラ 自由への長い道』
マンデラを知るという点ではとてもいい作品でしたよ。

 

どんなに理想を掲げていても、それが伝わらないというもどかしさ。事態が悪化するごとに、倫理的な気持ちのストレスが積み重なっていく様は見事だと思うし(娯楽なのに)、「戦争とは人間最後の仕事である(ココで何故か僕がかつて教わった学校の先生の言葉)」という言葉の真髄は忘れてしまったけれども、闘争としての人間やエイプ達のような歴史に、どうして理念が役立たなかったのか? という問いかけに対する一種の回答のようなものとしてコレは観ておくべき作品の一本ではないかと僕は思った。また、その理念が次回作においてどのように引き継がれるのかはものすごく気になるということで、やはりこれは最上の倫理的エンターテインメントなのだ。 END

 

例えどんなに理想的なリーダーがいたとしても…
カリスマを描いた映画を観るといつもこの作品を思い出す。

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