『ユリイカ 2014年10月号 ラース・フォン・トリアー』/楽しむということ

2014年9月30日

ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー  『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ

 

新刊の『ユリイカ 2014年10月号』(青土社)の特集は「ラース・フォン・トリアー」。10月に鬱三部作としての三作目『ニンフォマニアック』(2巻構成で2巻目は11月公開)が公開される。ラース・フォン・トリアーの作品をあらためてまとめてみるとざっと以下のようなものがある。

 

黄金の心三部作(きびしい状況の中でも純粋な心を保ち続ける女性が主人公)

『奇跡の海 』

『イディオッツ』

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

 

鬱三部作

『アンチクライスト』

『メランコリア』

『ニンフォマニアック』

 

  ちなみに僕は『奇跡の海 』『イディオッツ』(もちろん『ニンフォマニアック』も)は未見である。『ニンフォマニアック』が公開されるまでに予習をかねて観ておこう。

 

 

 

ゾンビ映画やホラー映画を「楽しむ」という行為がある一方で、鬱映画(こういう表現が適当であるのかは知らない)を「楽しむ」ということは、どうもまた別の認識であるようだ…。同じく鬱映画であるギャスパー・ノエ(超映画批評による評価)の『カルネ』『カノン』『アレックス』などを観た後のあの陰湿な気持ち。

 

純粋に楽しめない作品を観るうえで、その作品に対して自己肯定的な解釈をしたいとの欲望もまた存在し、それこそポジティブに捉えるという余地があることを認知しておきたい。   例えば『来るべき精神分析のプログラム』(十川幸司:著)では、ダンサー・イン・ザ・ダークのセルマ(ビョーク)が歌っているようなシーンを、「何一つ外的な現実が変わらなくても、人はより強く新しい現実を発見できる」(P161)と表現しているように、たとえそれが自己内で完結しているような世界認識だとしても、それは良い意味で「きわめて主観的」な立場でもあり、そのことによって様々な自己を生成することの可能性を述べている。

 

来るべき精神分析のプログラム (講談社選書メチエ)

 

『ユリイカ 2014年10月号』の寄稿の中で精神科医・斎藤環は、「トリアーの精神医学や心理療法への不信感には根強いものがあり、その一端は『奇跡の海』『アンチクライスト』などにもはっきりと表明されている」と述べているが、十川幸司や斎藤環ような精神分析的態度で語るコトバの「可能性」と同じくらいに、トリアーの作品にも映像と物語としての「可能性」が込められているのだろう(トリアーは実際に鬱病による休業を経験している)。

 

  斎藤環が論考で表現しているような「最悪」さとしての世界認識。トリアーの作品には、その「最悪」な状況は必然的なこととして描かれている。トリアーはなぜそれを必然的なこととして捉えるのか。そして物語の中で登場人物達はどのような「倫理」に従うのかをあらためて観察してみること。「楽しむ」ことのもう一つの側面をトリアーから学びとることができる。 END

 

追記


 

『ニンフォマニアック Vol.1』のレビューはこちら

 

『ニンフォマニアック Vol.2』のレビューはこちら

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