『リスボンに誘われて』/我々のなかにあるもののほんの一部分を生きることしかできないのなら

2014年10月6日

リスボン

 

★★★★(4/5)

 

革命の中で生きたある男の生涯を辿ることによって、自分のこれからの人生を悟る。高校で古典文献学の教師をしている主人公ライムント。彼はある時、橋の上から飛び降りようとしていた女性を助けることによって、この世に100冊しか上梓されていない書物に出会う。その本の著者は、1970年代のポーランドで起きた革命(カーネーション革命)と共に生きた医師アマデウだった。その本の魅力に取り憑かれたライムントは学校の授業を投げ出し、本の舞台となっていたリスボンへと向う。

 

 

まずこの物語の構造として注目すべきこと。それは、いまは亡き医師アマデウに関わる人物達による回顧録で成り立ち、現代と平行して語られているということ。第二にその時代背景が史実である革命であること。そして、医師アマデウの本の記述よって、この物語の哲学が語られていること。

 

僕としては、主人公ライムントは文献学に精通している(物語の中では深く語られていないが)というのがポイントで、ある時代に生きた人間の言葉と現代に生きる人間達の言葉がシンクロしていく様子がとても心地よい。どのようにして「過去の言葉」が、ライムントを変化させていくのか? そういう意味ではこれはもう立派なビルドゥングスロマンなわけだ。

 

医師アマデウとその友人、そしてその友人の彼女。彼らは革命におけるレジスタンスとして活動していた。ライムントは自身を「退屈な人間」だと語り、激動の時代に生きた人間達に思いを馳せる。その退屈さというは、物語のはじめライムントが一人でチェスをしているように、それこそ「老い」という姿でしか描かれていないが、「終わりなき日常」として重ね合わせてみると、ライムントの気持ちというのは実はものすごく切実で普遍的なテーマではないだろうか。ライムントが教える若者達に対して向ける態度(彼らはいずれは卒業してしまうので親密にはならない)というのは、繰り返される日常そのものであった。

 

「我々が、我々のなかにあるもののほんの一部分を生きることしかできないのならーー残りはどうなるのだろう」医師アマデウの言葉(原作『リスボンへの夜行列車』P26)

 

リスボンへの夜行列車

 

本当の人生とは何だろう? 「退屈な人間」が「言葉」によって獲得していくものとは、これからの人生を生きていくための志向性でもある。生きる志向性としての対象が、「革命の中で生きた人間達の愛や希望」から生まれるという描写はよくあることだ。無論ライムントも例外ではない。けれども、そのような「言葉」が先に述べたように、過去と現代の人物達によって紡ぎ出されたものだという構造において、誰もが参考とすべき物語としての効用をこの作品は提示しているのではないだろうか。 END

 

 

『レオポルド・ブルームへの手紙』 言葉によって紡ぎだされた映画として、真っ先に思い出したのがコレ。 本ではなく手紙がその媒体となるが、書かれたモノを読むモノローグが心地良い。

レオポルド・ブルームへの手紙 [DVD]

 

『サラの手紙』 「退屈な人間」のための映画ではないが、『リスボンに誘われて』の構造と良く似ている点において、同じく「救い」という共通項を見出すことができる。観得。

 

『麦の穂をゆらす風(The Wind That Shakes the Barley )』 史実としての歴史から「何を学ぶか」ではなく「学ぶという姿勢」そのものを考える。良い作品を観るとはそういうことでもある。この作品に「現代」は出てこないが、なびいている穂を見るとこの作品をいつも思い出す。

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