『レッド・ファミリー』/演技の作用

2014年10月10日

レッドファミリー

 

★★★+(3.5/5)

 

青と赤の原色で分け隔てられた境界を4人の家族がまたがろうとしているポスターがとても印象的で、シリアスさと笑いに対しての価値感がゆさぶられる作品だった。どのようにしてそれは生じたのか?

 

脱北者暗殺等のためにスパイ活動をする「ツツジ班」と呼ばれる疑似の家族がいた。妻として演じるスンヘを中心として残忍な任務を刻々と遂行していく。しかし隣に住む「本物」の家族と交流を続けていくうちに、ツツジ班としての活動にどんどんとほころびが見えはじめ…。

 

 

以下15%程のネタバレあり。

ただ、公式サイトの方がさりげなくストーリーを語り尽くしているという点においては、本ブログはほとんどネタバレをしていない。ストーリーだけでは語ることのできない面白さ…。

 

 

■シリアスな部分

 

北朝鮮と韓国との境界、北緯38度線における映画は多く作られているが、この『レッド・ファミリー』が面白いのは疑似家族と本物家族との境界がいかに揺らいでいくかにある。班長スンヘの表向きの態度とそうでない時のツンデレぶりはのっけから全快なわけだが、もちろんこれは性格としての描写ではなく、任務を確実に実行するための組織統括による「行為」であった。だから、スンヘの態度がいかに変化していくのかという視点も見所として挙げられる。ただ彼女や他のツツジ班メンバーにとって、本当の理念(大切なこと)とは何かという確固たる思いはすでに存在していて、それはやはり人生の目的や家族愛を共有することにあった。「鳥」をめぐる会話にはその思いがはっきりと表現されていた。だからこそ「境界に存在するような不条理」が明白に示されることになるのだろう。

 

■笑いの部分

 

シリアスな状況の「中」での笑い。僕にとって、例えばそれは『セブン』の中でサマセット刑事(モーガン・フリーマン)と相方の刑事(ブラッド・ピット)、そしてその妻とが部屋で会話をしているシーンなどに象徴される。暗闇のストーリーの中で輝く一瞬、それは希望や喜びを表現しているようなシーンだ。その一方、「中」ではなく「シリアスそのものとしての笑い」がある。例として『グエムルー漢江(ハンガン)の怪物ー』で描かれている葬式シーンをあげる。ものすごく悲しいシーンであるはずなのに、泣き叫ぶ家族の姿がなぜかだんだんと滑稽に描かれていく。『レッド・ファミリー』において僕が感嘆したのは、この「シリアスそのものとしての笑い」がとても効果的に思えたこと。そのような効果は所々に見受けられる。例えば廊下でマンセ(万歳)をしている姿はもちろんただそれだけでは滑稽だけれど、それが残酷な任務の後に描かれているだけに、どうしてもある種の「違和感」を感じてしまう。もちろんこの場合の違和感とは、芸術作品として評価すべく異化作用としての感覚だ。

 

『セブン』のディナーシーン

 

『グエムルー漢江の怪物ー』の葬式シーン 30秒あたりから

 

 

■感動する部分

 

「境界に存在するような不条理」は、常に「シリアスそのものとしての笑い」を伴って描かれている。疑似家族が演じる家族に対して、それでも涙してしまう理由というのは、彼ら彼女らの確固たる思いが素晴らしかったというよりも、演じるということの作用が他者以外の方向に向けられたから…。「違和感」が現実に対しての認識を突き動かすことができるように、演技という作用も現実との境界に向けて、他者のみならず自身を変化させることができる。 END

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