『ニンフォマニアック Vol.1』/トリアーの鬱を探しに

2014年10月27日

ニンフォマニアックvol1

 

★★★(3/5)

 

冒頭がとても印象的だ。真っ暗な画面から始まり、雪が舞いその解けた水が滴る長回しのシーンへと遷移する。小通りで女性が倒れていることが認識できると、突然音楽が流れ出す。何か変わった出来事がこれから始まるという期待度に関して言えば、トリアーの作品は逸品だ。

 

『アンチクライスト』の冒頭(2009)

 

『メランコリア』の冒頭(2011)

 

血だらけで倒れていた女ジョー(シャルロット・ゲンズブール)は、男セリグマン(ステラン・スカルスガルド)に介抱される。Vol.1の全編は、ジョーによる過去(思春期から20代)の告白形式で成り立っている。ジョーとセリグマンの対話が過去のシーンにオーバーラップしていくあたりは、リズミカルで観ていて楽しい。鬱映画の三作目であるはずなのにまるでコメディー映画だと言われる所以だ。

 

 

 

一人称から複数視点へ

 

例えばジョーの初体験のお話。前から3回、後ろから5回。その話にすかさず博識であるセリグマンが言及する。その数はフィボナッチ数列であると。またジョーによって語られるある3人の男の物語は、セリグマンによって ポリフォニック な世界へと導かれる。ジョーの一人称の告白によって描かれる一方的な男性像としてのイメージから、セリグマンの知を通して溶き解される複数の視点を奏でるような導き。まるで鬱を完治していくための物語のようだ。ジョーによるモノローグの視点が、セリグマンとの対話によって ポリフォニー となっていく。その滑稽さは館内でも笑いが生じる程だった(トリアーの作品なのに!)。

 

語ることによるポリフォニー(効果)とは何か?

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

 

 

モザイク問題

 

冒頭のアンニュイな感じが一掃されるのは、様々なペ◯◯が映し出されるシーンである(もちろんモザイク付きで)。この本文のように◯◯で表現するとそれが卑猥(変態)的なものとして映ってしまうように、せっかくの芸術的感性を目指したはずのトリアーの物語も、たんなる卑猥映画を観ている日常としての現実に引き戻されてしまう(ただし★の評価にこのモザイク問題は加えていない)。

 

モザイク問題と言えばこの映画。モザイクによっては、物語の見方が180度変わってしまう恐れがあるから注意が必要だ。(ぼかし問題参照ページ『ぼくのエリ 200歳の少女』のボカシ。それ一つで物語の意味が変わる」
『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008)。

 

 

物語のない性

 

ジョーの欲望(ニンフォマニア)は、本人も言及しているように、満足に対する「不足」から生じたものではない。欲望そのものがはじめから突っ走るような感じだ。だからこの作品は、マイノリティーだとかフェミニズムの問題が見え隠れしているというよりも、だんだんと「性」そのものが主体となっていくような錯覚を抱く。ジョーはある男を愛しはするが、それが現実に対する欲望の「不足」でなければやはりそこに愛は存在しない。かといってプラトニックという要素も見つからない。全てのS◯◯シーンがたんたんと描かれている理由。それは、そこに「性」があったから。「愛のない性」そして「男女関係ではない性」そのものを見ることになるだろう。

 

 

正常な物語

 

ジョーによる「性」とセリグマンの「知」のピースが組み合わせっていくあたり、その多少のコメディータッチには笑えたとしても、冒頭のようなゾクゾク感からは中盤以降遠のくこととなる。思考のたんなるオーバーラップはすぐに見飽きるものだ。必ずしもトリアーの鬱を観に来たというわけではないが、ある意味このコメディーとしての「正常な物語」に戸惑うファンも多いはずだ。最終的に僕自身何も感じるとることができなかったのは彼の暴走が物足りなかったからと言うべきか…。もちろんVol.2を見ない限り、トリアーの戦略はまだまだ分からない…。 END

 

 

S◯◯そのものを題材に、至ってまじめにそしてコミカルに描いた作品としては『愛のキンゼイ・レポート』(2004)がおすすめ。

 

 

追記


 

 『ニンフォマニアック Vol.2』のレビューはこちら

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