『ニンフォマニアック Vol.2』/何を感じとるべきか?

2014年11月6日

ニンフォマニアックvol1-vol2

 

★★(2/5)

 

もはやジョーがなぜニンフォマニアックになり、そして不感症になってしまったのかは分からないが、彼女自身の再生物語としてそれなりのプロットがあったという点において、このVol.2はいたってまともな作品だ。ジョーは「s◯x addict」※1(中毒者)としてみられる他者からの視線に対して、「nymphomaniac」だという本来の自分を取り戻す物語。

 

 

Vol.1のレビューはコチラ

 

『ユリイカ 2014年10月号 ラース・フォン・トリアー』についての

メモ書きはコチラ

 

 

 以下ネタバレ前提のレビュー

 

 

人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉はある歴史の一面においてはNGとして見なされるわけだけど(「デイヴィッド・ライマーの症例の社会的な影響」を参照)、そういう経緯を含めたとしても、自分は自分だという主体性をあらためて肯定していくことは大切だ。どんなに弊害があろうとも、自己を肯定していくような物語にはある種の解放感がみえてくる。ジョーはニンフォマニアックとなったわけではなく、ニンフォマニアックとして生まれたのだ。このように『ニンフォマニアック』を眺めてみると、Vol.1にはその性根を楽しめということ、そしてVol.2には様々な志向を肯定することへの大切さが含まれている。つまりは人生を楽しめということだ。

 

 

自己解放としての様々な名シーン

 

車を燃やすジョー

車を燃やすジョー

 

タンカーを爆発するマッコール『イコライザー(2014)』レビューはコチラ

タンカーを爆発するマッコール

 

炎も氷も結局はおんなじだ

炎も氷も結局はおんなじだ

 

 

一体ジョーは何に対して苦痛を味わっていたのだろう。その障害となるものが捉えにくいので、とても抽象的な物語であったと感じてしまう。無論彼女は家庭における役割やマイノリティーといった問題を飛び越えて、自分自身としての追求をおこなっていただけとも考えられる。

 

 ジェンダーフリー(gender-free)(以下「ジェンダーフリー概念の成立」の項目を参照)という言葉がある。それは「男女による格差に敏感な視点を持つ」ことを前提として、社会を構築をしていこうとする理念において考えられた。だからその言葉自体をたんに「男女の差異を無くしていく」という肯定的な意味合いで使用することは歴史的には正しくない。なぜならジェンダー(格差)を無くす(フリー)という認識は、男女問題の本質を覆い隠すという負の側面があるからだ。

 

トリアーの描いたジョーの生き方も同じように考える。彼女の欲望を無くす(見えなくする)ということは、社会にとっても不幸なことだ。苦痛(鬱)は社会的な産物として捉えることに意味がある。だからこそ自分自身でそれを再定義する必要がある。そしてセリグマンの解釈がもう必要とされなくなった時にジョーの次なるステップがはじまる。だから鬱三部作の締めくくりとしては、しごくまっとうで潔い感情を、僕はジョーから感じ取ることができた(セリグマン並の解釈だ)。

 

の評価には、やっぱりたんなる変態映画であったという皮肉がたっぷりと込められていることを付け加えておく。 END

 

 

 

※1 ◯で隠した理由は(Vol.1のレビューも同様に)、本ブログのGoogle Adsense(広告)のNGワード対策のためである。ぼかし問題としての映論に対する立場もただただ察するのみである…。

 

 

「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」

 

ブレンダと呼ばれた「少年」は、生まれた時の割礼手術の失敗により少女として育てられることになるが…。ジェンダーフリー(社会的に作られた男女の格差)を考える上での必読書。

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