『インターステラー』はいかにしてイメージを実現するか?

2014年11月27日

インターステラー

 

★★★★★(5/5)

 

 

思考や表現は、それが本質的であるほど、根拠のないイメージが否応なしに介在してくる。具体的なテーマを掲げているはずなのに、その土台となる理論の背景には、まるで根拠のない生き様や思想が反映されているのだ。ただ、もしそれらイメージが世界に対する生き方の提示であったとしたら…。

 

 

 

 

以下 ネタバレなし編。「ネタバレあり編。彼らとは誰か?」はこの下にあります。

 

壮大な妄想によるレビュー。

 

 

見えないイメージ

 

ニュートン力学の運動の法則に慣性の法則がある。質点(大きさ等質量以外の属性を省いたもの)はそこに力が作用しない限り、永遠と静止または等速直線運動をし続ける。これは、宇宙船がはるか彼方へゆっくりと突き進んでいくイメージそのものだ。むかしこの法則を学んだ時に※1、実はそこにもうひとつのイメージがあることを知った。運動の法則が定められたその質点に対する認識の土台には、空間はどこへ行っても常に均質(絶対空間)であるという前提が含まれているということだった。たんに法則が述べられているわけではなかった。無論その土台自体に根拠はないが、世界に対する当時の人達の考え方もそこには含まれているのだ。

 

クーパー(マシュー・マコノヒー)が娘マーフ(クーパー:マッケンジー・フォイ)に、『マーフィーの法則』を語るシーンがある。同名の書籍は日本でもベストセラーとなり、根拠のない格言(傘を忘れた日は必ず雨が降る、など)を面白おかしく表現したことから話題となった法則だ。ただこの法則の本質は、 “If it can happen, it will happen.”「起こる可能性のあることは、いつか実際に起こる。」である。『インターステラー』にはこのような根拠なき可能性として想起される登場人物達によるイメージが、至る所にちりばめられている。だからこの作品は、宇宙飛行士であるクーパーやその周囲の者が、自分の意志としてその可能性を体言化していくような物語でもあり、極めて人間的な印象を与えられる。

 

 

あまりにも壮大な宇宙空間の中で可能性をイメージするとは?

インターステラー1

 

 

 

圧倒的な時間と他者

 

可能性の反面、時間という圧倒的な存在が示される。「事象の地平面」や「特異点」といった物理数学として到達できないような概念のみならず、時間軸をひとつの物差しとして、未来の人物という決して通じ合うことのできない他者が描かれる。そのような未来の他者に対して、いまを生きている人間は、一方的に伝える(継承)という行為でしか働きかけることができない。その一方向性によって 宇宙という壮大なイメージが、ノーランが提示してきた不可逆性(時間や他者に対する正義感)というイメージにも重なって見えてくる。そうなった時に、そのイメージは極めて人間臭く、そして自分自身の物語でもあると感じられるようになる。自分は一体何を伝える存在なのか。実存としての問題が現れる。

 

 

– 時間の不可逆性について −
1977年にノーベル化学賞を与えられたイリヤ・プリゴジンは、時間が不可逆性(非対称性)であることに着目し、それこそが創造(生命)の源であるとの思想を残した。(浅田彰によるインタビュー「時間と創造」PDF)

 

 

 

愛の観察者

 

自然現象に、人間の姿を見出したり、意志を投影するのは浅薄だ。けれども自分は全く「科学」的だと言う立場も傲慢だ。「科学」と「科学的であろうとする態度」は別物なのだ。ニュートン力学では一様な空間が想定されるが、同時にそれは決定論的なイメージとして語られる。相対性理論や量子力学はそんな世界観を瓦解するために作られた(発見された)。少なくとも、当時の物理学者達がそのようなイメージを共有していたことは確かだ。科学の歴史は自然現象の仕組みに人智の問題(観察者効果)が加わってくると俄然面白くなってくる。自由意志としての問題が突きつけられるからだ。

 

 

自由意志の問題は、科学理論の背景に常に見え隠れしている。そのような隠れたイメージを喚起していくことは、科学のみならず映画や他の芸術を楽しむうえで、とても大きな武器となる(ただし妄想は除く)。

 

 

だから、アメリア(アン・ハサウェイ)が自身の乗っている宇宙船の進むべき方向として、限りなく自分の意志を介入させていく姿には感化される。その態度は浅薄ではあるが、とても尊い選択だと感じるとることができる。このような二重性をもつ彼女の行為が、本当に美しいと感じられた時に、世界に対する生き方の問題が収束されていく。観察者である自分は、他者を身近に感じ、何かを伝える努力をしているのだろうか? イメージの力は時に現実とリンクし、こうして疑問を投げかけてくる。映画はやっぱり面白い。

 

 

インターステラー・アメリア

 

 

 

※1 予備校で下記の本の著者から物理を学んだことがある。彼は外国の古い文献を参照するため、ラテン語学校にも通いつめたそうだ。とてもボリュームのある本で、あとがきだけでも参考になる。元・東大闘争全学共闘会議代表でもあった彼の伝える(生きる)原動力は、まさに『インターステラー』の「怒り」のようであった。

 

 

ここからは ネタバレあり編。

 

彼らとは一体誰か?

上記のレビューを踏まえた上での僕の解釈。

 

 

クーパーははじめ、娘が感じたゴーストには見向きもしませんでしたが、
ある場所のメッセージを受け取り、そこへ向いました。

 

クーパーと娘のマーフは、そのメッセージは見知らぬ誰か(彼ら)から
ある意志を持って伝えられた、と感じました。

 

ワームホールを通過している時も、
クーバーは直感的に「彼ら」が来たと感じたのでしょう。
ただ、この時点ではまだまだ「彼ら」は誰で、

どんな目的を持っているのか分かりません。

 

では「彼ら」とは一体誰か?

 

5次元にいる時にクーパーははっきりと
「彼らは我々だ」
というようなことを言いました。

 

以下はそれこそ私の解釈です。

 

クーパーは娘に対して「マーフィーの法則」を語りました。
その法則が物語の一つのテーマではないかと考えます。

 

“If it can happen, it will happen.”

「起こる可能性のあることは、いつか実際に起こる。」

 

クーパーは宇宙船をドッキングさせる時、まさに上記のような姿勢で挑みました。

 

そのクーパーが5次元にたどり着いた時、
あの時、本を落とした「彼ら」は、実は自分だったとわかります。
そしてSTAYと伝える、さらに娘(人類)を助けるためにデータを伝えます。

 

ここで私は この物語は円環構造 になったと感じました。
彼らはクーパー自身となり、父親が娘を助ける、そして彼らが人類を助ける。

 

それはまさしく「必然(運命)」的なものとなったのです。

 

「起こる可能性のあることは、いつか実際に起こる。」
父親の意志が、実際に起こり、偶然を必然に変えていったのです。

 

以上が私の解釈です。

 

宇宙は広大で本当に不思議な存在です。
人間の認識、つまり時間の一方向性、原因と結果、偶然と必然…。
これらは全て事実ではなく、解釈の一つのようなものであり、
これからも議論され続けていくでしょう。
ノーラン監督は映画を作るため実際に相対性理論を学んだそうです。

 

アメリアが宇宙船で「愛」の持論を語った時、
はじめクーパーはその認識に対して一蹴しましたが、
広大な宇宙、そして未来の人類にとっては、

愛は別の「何か」かも知れません。

 

将来いつかこの物語のような世界が実現しているのでしょうか?
これは未来の人間へ向けたノーラン監督によるメッセージ。

僕はそのような映画でもあると感じました。END

 

 

追記


 

浅田彰のインターステラー評

クリストファー・ノーランの《インターステラー》

 

考察の鍵がそこに?『インターステラー』本棚から落ちていた9冊の本。で紹介されているトマス・ピンチョンの『重力の虹』。この小説に、時空を超えた父と娘の物語が描かれている。

 

宮台真司
映画評:キム・ギドク監督『メビウス』、C・ノーラン監督『インターステラー』、虚淵玄脚本『楽園追放』

 

 

2014年 第88回キネマ旬報ベスト・テン

外国映画ベスト・テン 6位

 

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