『フューリー』/リアリズムの中で考える

2014年12月4日

フューリー

 

★★★+(3.5/5)

 

 

目の前の現実が厳しく過酷であればあるほど、人はそこに意味を求めはじめる。けれども自分が何故そうなってしまったのかを考える余裕は恐らくない。未来が来るのかさえも分からない。ただひたすらその場から見える風景の意味を考える。リアリズムを追求するとは、そのような態度を貫くことだ。

 

 

 

 

タイピストであった少年ノーマンは、突然戦火に放り込まれ、厳しい現実を目の当たりにする。そんなノーマンを含めた5人の兵士達は戦車フューリーに乗り込み前線へと突き進む。彼らが戦争によって辿り着くことのできる意味とは一体何だろう?

 

 

目の前に広がっている残虐な光景の数々…。指揮官ウォーダディー(ブラッド・ピット)が発した「歴史は残酷」であることをメタ認知としたうえで、そのような光景をひたすら眺めてみること。実はそうすることによって(平和を頭に思い描くよりも)、人は人としての倫理を保つことができる。崩れ落ちる二つの塔もしくは兵士)を見てまるで映画だと感じてしまうように、自己解釈本能が心に作動するからだ。ただ自己の物語として回収できてしまうような現実描写を、戦争映画は常に準備しておく必要はあるのだろうか?

 

 

戦争映画に感情移入はいらない 

 

 

だから、あえて残虐性が映し出される。一瞬でもいいから解釈不能に陥った(観客の)自己を認識させるために。そのようなモンタージュ(取捨選択)によって現実がゆがめられるという心配よりも、その一瞬を喚起させることに意味がある。それが映画としての可能性だ。そのような解釈の不可能性によってリアリズムの存在意義が試される。敵国の兵士は “ほぼ” 完璧に無慈悲な存在として描かれている。無駄な意識は極力はじかれているのだ。場面によってはむしろ主役達のほうが無慈悲なくらいに描かれる。人は一体いつから映画に感情移入を求めるようになったのだろう。ただ目の前の風景を感じることがこの作品の本質だ。

 

 

そんな解釈困難な世界の中で、ノーマン少年は、自分のため仲間のため、そして怒りそのもののために、だんだんと 脱感作 に包み込まれていく。彼が機関銃をぶっ放す姿は(背景に流れる音楽を含めて)、まさに映画のためだけのカタルシスといった感じだが、物語の推進力となるのは、断然ひたすら突き進む戦車の姿だ。薮から飛び出す予期せぬ現実が常に先攻しているという点において、リアリズムは常に徹底されている。もし自分に、目の前の風景にだけ取り憑かれてしまうような瞬間がやって来たとしたら、少しでもいいからこの映画のようなリアリズムを思い出してみること。世界は残酷であるというその認識は果たして本物なのだろうか? 少なくとも考えている間は、まだまだ希望が見えている。 END

 

 

 

リアルを隠蔽することによるプロパガンダとしての歴史。
リアルな残酷さに魅了されてしまうような映画の美学。
リアリズムにはそのような問題・視点が含まれている。

 

人はどのようにして残酷な行為への抵抗をなくしていくのか?
脱感作について考える。

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