★★★+(3.5/5)
『ゴーン・ガール』はとても複雑な作品だ。結婚生活の難しい一面について、メディアに対する社会風刺について…etc。物語自体は上質なサスペンス風味だが、ある人生の局面において描かれるはずの真実の愛を、まるで滑稽だと言わんばかりに見せつけられて何だか釈然としない気持ちになる。エンドロールが始まるや否やポップコーンを散らかしてそそくさと退出していった僕の近くのあの観客は、この映画に何を求めていたのだろうか…。
以下ネタバレ前提(映画を観た前提)でのレビュー。
ニック(ベン・アフレック)はとてもじゃないが良い夫ではない。妻エイミー(ロザムンド・パイク)の作られた日記によって、出会った頃の幸福な生活から反転、彼女の転落人生が明かされていく。ボイスオーバーで重ねられた彼女の姿と、身の回りで何が生じているのかを全く理解していないニックの姿。そのようなねじれの位置にあるような夫婦関係を、抑えた色調を基に描いていく謎解きの手法は、これぞフィンチャーズスタイルといった感じだ。
女嫌い(ミソジニー)
この作品についての海外のレビューを読んでいると「misogyny(ミソジニー)」という言葉がよく引用される。それは「女嫌い」という意味を持つ。日本でも社会学者の上野千鶴子氏が『女ぎらい ニッポンのミソジニー』という本を上梓している。男性にとってはまさに「女性蔑視」のことであり、女性の立場からしてみれば「自己嫌悪」を指し示す言葉だ。なるほどニックが妻エイミーを思わず突き倒すくだりは、むしろ不自然というくらいに強調されて女性を酷く扱っている(蔑視以前の性格の問題かもしれないが…)。また観客視点においても、あのニックに対する女性アナウンサーのむかつく態度、ニックと一緒に写真を撮ることを迫るバカ女?!の姿はまさにミソジニスト達を歓喜させるような典型的な姿ではある。ちなみに妻(or 恋人)がいるのに、どんな女性に対しても愛想良くしてしまうような男(ニックの反射的な笑顔)も典型的なミソジニストの分類に入るらしいから注意が必要だ。
世界はそのような典型的なイメージの塊でできている。人にはそれぞれの人生があり、物事に対する多くの見方が存在する。けれどもその反面、あるひとつの固定化されたイメージ(共通了解)によって日常生活が成立していることも確かだ。「アメリカ人は妊婦が好きだ」というエイミーによる格言は、彼女の夫に対する狂気さを通り越し、そんな典型的なイメージの世界に住む私達に対して、むしろ反省を促すようなユーモアさえも感じられる。完璧なエイミーの超越的な視点を踏まえつつも、さらに根本的な人間のある性質、すなわち一方的な世界に対するドグマを見せつけられる。
エイミーの眼差しとは?
ペルソナ
やっぱり女は怖いだとか、男にすがる女は嫌いというミソジニスト的な感情を量産させるであろうこの物語に内在する問題点は、人間はある局面に対して一方的なイメージを抱くというドグマからの解放を、とても恐ろしい方法で描いている点にある(映画的には大成功だ!)。人は他人に対して多くの自己イメージを創造するが※、エイミーはベタ過ぎるほどにその創造力を駆使して世間をあざ笑っていく。彼女はペルソナ(仮面)を意識的に活用していくのだ。今年観た映画『アバウト・タイム』のレビューでも語ったように、他人に対して複数ある自己(ペルソナ)を認識することによって、新たな人生を切り開くことができたとしたら…。
※世間に対して良い夫婦を演じるということもそのひとつだ
ニックとエミリーは夫婦でそれらペルソナを共有したことにおいて、とてつもなくプラトニックな感覚(愛ではない!)を共有したことは事実だ。映画を観た後のあの恐ろしい感覚は、普段は意識さえしないペルソナの存在を、常に剥がされたような状態にさらされることからやってくる。ベットやバスタブに横たわるエイミーからの眼差しは、つまりは自分自身の“いま”の姿でもある。ただそのエイミーの姿はとても官能的で、やっぱり壮大な夫婦喧嘩を見せつけられただけではないのかというこの僕の感覚は、たんなる嫉妬心からくるものなのか? ええい、クソお似合いの夫婦じゃないか! 結局この物語の世界は、一番不幸な人間は好きな女に振られたクソまじめな男なのだという典型的な悲しさのみで成り立っている。 END
追記