『百円の恋』/負け犬の再定義

2014年12月30日

百円の恋

 

★★★+(3.5/5)

 

 

負け犬人間が怠惰な日常から抜け出して、ある目的を見出し、どん底から駆け上がる。その過程を描いた主人公一子(安藤サクラ)の濃縮されたある人生の一ページ。どんな作品にも劣らない高揚感としての体験をこうして味わってみると、改めて映画にとってカタルシスとは何なのだろうと考える。人生の“暗さ”に対比する“明るさ”という深淵さにはほど遠いけれど、ぶっきらぼうな登場人物達から引き起こされる“笑い”というものも悪くはない。いずれにせよ館内が笑いで満ちあふれていたという体験は、物語を超えた僕の「映画体験」として忘れられない一本となったことは確かだ。(ちなみにそういう意味での一番の映画体験は『サンキュー・スモーキング』(2006年)である。)

 

 

 

 

主役達が語らないカタルシス

 

物語は一子の実家から、バイトするコンビニの世界へ。何気ない日常の世界がこの映画の全てだ。そんな舞台の中で、これでもかと言うほどに「クズ」ばかりが登場する。コンビニバイト経験のある僕としては、さすがにあんな奴らは存在しないと思いながらも(たとえデフォルメされた人物だったとしても)、バックヤードでのあの疲弊感漂うシーンなどには激しく共感せざるを得ない“何か”がある。一子が自転車に乗る姿は、アンニュイな人物を描く映画の文法論として日本映画史をアップデートするほどのインパクトを与えるだろう(アンニュイ部門があったとしたら!)。主役である一子と狩野(新井浩文)が無口だというのも印象的だ。今世界では何故にコミュニケーションを取りたがる? 中華屋で放たれる狩野の一発は、まさにそんな過剰で無意味なコトバの世界に制裁を与えるといった感じだ。会話(映画)はスマートでなければならない。主役達が語らないカタルシス。

 

 

人生における目的とは一体何だろう? 彼女は夢を抱いていたのだろうか? タイトル通りに「恋」の物語であったことに気付かされることも確かだが、物語を支える彼女の目的が、虚栄心からは程遠い場所にあったことにも着目だ。主人公が目的を達成する際に立ちはだかる門番(障害)は一体何か? 貧困、無知? それともたんに愛への渇望か。ただその前に、何かを達成していく爽快感を味わうために用意されるべく彼女の最高の舞台とは、たんに試合に出場するということだけであったのか? そういう意味では、彼女には何かを解決するという目的は存在しない。つまりは形而上学的な目的というわけだ。もはや目的という言葉すら似つかわしくないだろう。だから男に振られるといった外部的な要因を「負け犬」描写として表現するのは間違いだ。もちろん「負け犬」とは「怖くて何にもやらないヤツ」という励ましももはや一子とっては無意味である。アナタはたとえ(極めて)日常的な世界に生きていたとしても形而上学的な《目的》を見出そうとしたことはあるのか? 本当の負け犬はそのような疑問すら湧かないだろう。 END

 

 

 

『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)
マギー(ヒラリー・スワンク)は、どうしてボクシングをはじめるのか? 『百円の恋』と対比して、あらためて「目的」という言葉の意味を考えてみる。

 

 

クリープハイプ「百八円の恋」
このPVの撮影は、この映画が実際に上映されているテアトル新宿でおこなわれている。地下にあるこの映画館は電波が非常に通じにくいので、ネットで予約した際にはスマフォのキャプチャー画面を用意しておくなどの準備が必要だ。待ち時間の時間潰しもアナログ思考で乗り越えよう。

 

 

 

 

追記


 

2014年 第88回キネマ旬報ベスト・テン

日本映画ベスト・テン 8位

 

第24回日本映画プロフェッショナル大賞 作品賞

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