『薄氷の殺人』/非意味化する物語

2015年1月16日

薄氷の殺人

 

★★★+(3.5/5)

 

 

以下 ネタバレ(観た)前提でのレビュー。

ストーリーはほぼ語っていないが、感覚を味わう部類としてこの作品を捉えるのならば、このレビューは映画を観た後に読んだほうが得策だ。

 

 

 

 

見つめる

 

地面に腕らしきものが埋まりアップで映し出されている。すると画面が微妙に揺れている。その動きに違和感を感じ始めると、画面は次第にズームアウトされていく。実は土砂を積んだ走行中のトラックであったということに気が付く。見ている風景が一瞬にして変わる。

 

物語の舞台は1999年と2004年。季節はそれぞれ真逆の夏と冬だ。トンネルを抜けると冬がはじまっている。トンネルの出口付近で男が寝そべっているのが見えてくる。その風景に向ってどんどんと近づいていくが、何故か一端は通り過ぎてしまう。するとくるりと旋回し、またその男のほうへ近づいていく。その瞬間、それら一連の風景はある男の視点であったということに気付かされる。ボーッと見ていたはずの風景が、実はある男の主観ショットであったという認識に置き換わる。とにかく見るということの意識を過剰に問うてくるような映画だ

 

 

トンネル

 

 

非・意味について

 

空き瓶と段差のある地面。主人公の男ジャン(リャオ・ファン)から解き放たれたあの空き瓶は、どうしてあんなに転がっていくのだろう。たとえば私は子供の頃の石蹴りを思い出す。誰もが記憶にあるような風景だ。そして問う。あの行為自体に意味はあったのだろうか? ただ今こうしてブログを書いている私(読んでいるアナタ)がふとした瞬間に思い出したあの石蹴りの風景に、意味を求める必要はあるのだろうか? もちろん子供の頃の忘れられない思い出であることに変わりはないが、この映画において考えられるべきことの一つは、人生には意味や無意味といった枠組みだけでは捉えることのできない何かがあるということだ。

 

空きビンのようなシーンはいたるところに存在する。男と女が並び歩いている。その男は背後で自分の手をつないでいるが、女には分からないように(無意識にというべきか)、手のひらをグー・チョキ・パーといった感じで変化させている。感情の全ては、“ほぼ”こうした行為や存在でしか示されない。チンピラ風の男とジャンがクリーニング屋の外で揉め合う光景。ネットカフェで暴れる客とその様子を見守るジャン。女が残していったあの飯の存在。全てが人生における石蹴りのような風景で映し出される。それらは全て非意味な存在だ。そこにはそうすべき、またはそうあるべきという理由は見当たらない。

 

 

非意味化する物語

 

事実としての描写は、人の嗜好や理性を拒む。けれどもこの物語はそのような人生の非意味な部分を見つめるという手法で、存在の核を突いていく。人は作られた物語によって自分を語り、世界を知ることができる。そしてまた意味や無意味といった概念も作られたモノだ。だからこそ非意味としての風景をいかに表現していくべきか。存在を知り、感じるとはそういうことだ。思想家のサルトルはそれを『嘔吐』という小説で表現したが、『薄氷の殺人』はそれを音と映像で表した。

 

非意味な存在へのクローズアップ。この映画を観た後で、彼ら彼女ら(登場人物達)が見てきた風景をあらためて思い返すと、殺人というテーマでさえもさほど重要ではないと感じられてしまうから不思議だ。ジャンのダンスは非意味な風景の象徴なのだろうか。食卓で仲間達と談笑する姿でもいい。人生に目的を見出そうとしている人間(ジャン)に、意味を過剰に与える必要はない。むしろ人生は非意味な風景の連続なのだから。 END

 

 

ちなみに原題は『白日焰火』(白昼の花火)で、英語題は『Black Coal, Thin Ice』。そのどちらにも「殺人」という言葉は含まれていない。

 

 

 

『嘔吐』
人は物語によって自分を語り世界を知るが、「意味」や「無意味」という概念ほど作られたモノは存在しない。むしろ非意味としての風景をいかに表現するか?

 

 

 

 

追記


 

 

宇多丸 薄氷の殺人 シネマハスラー

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