★★★(3/5)
走るという行為が起点となって、トラウマを見つめる物語。1960年ローマオリンピックでの出来事。400メートル走でのゴール手前、インド代表のミルカは先頭を走っていたが、突如トラウマがよみがえり失速。メダルを逃す。彼はそれ以来表舞台からは姿を隠す。元コーチらはそんなミルカの元へと向う。再起をかけてある重要な大会への出場を願うためにだ。かくして長い汽車での旅がはじまる。153分という長さの整合性がさりげなく回収されているあたりが憎らしい…。
トラウマ描写
ストレス関連障害であるPTSD(外傷後ストレス障害・posttraumatic stress disorder)は「再体験」「過覚醒」などといった症状に分けられる。「再体験」は俗にいうフラッシュバックのことだ。物語の契機は、ミルカによるフラッシュバックによって引き起こされるが、そのようなシーンはストーリーの随所に挿入されている。馬がいななく印象的なシーンは、スローモーションの効果によってハイパーリアリズム的に描かれる。まさに「トラウマ性の再体験は編集を受けず、同じ映像がいつまでも変わらぬ生々しさで体験される」※1。一方「過覚醒」とは常に緊張が続き、不安であるような状態のことを指す。ミルカの鍛えられた肉体は、時として汗や血を伴う生々しい感覚としての質感に置き換わる。張りつめた空気の演出。それは映像による緊張の代替だ。
※1 下記書籍 11ページからの引用
「経験に与える意味」を考える
一般的にトラウマは、対話の中でどのように克服されるのだろう? 『トラウマ』(宮地尚子・著)という本には、「トラウマ性記憶」を「通常記憶」として捉え直すことが重要だと書いてある。すなわち「過去の記憶に触れていき、断片的な記憶を再構成して物語的な記憶に変えていく」ことである。実に映画的だ。これは『ミルカ』のテーマそのものでもある。内省は過去との対話でもある。沈黙のシーンが多いのも特徴的だ。
一方、トラウマなど存在しないという考え方もある。昨年話題となったアドラー心理学がそうだ。不幸な出来事が心身耗弱のキッカケとなることには間違いないが、トラウマとはむしろ「原因」と「目的」の履き違えによって生まれたものだという。これはどういうことか? 「いま苦しい」ということを説明するための「目的」として、「過去の思い出」が引き合いに出されるということだ。だから、不幸な経験が「原因」となりトラウマになった(=結果)と考えるべきではない。原因から結果へという決定論からは、人生において、何も生まれないからだ。「経験に与える意味」※2によって考える。
※2 自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定する
「第一夜 vol.2 哲人は断じる。「すべてのトラウマを否定せよ」」cakes
走ることの意味
盛大な?叙事詩であるから、トラウマとは直接関係の無いサイドストーリーも存在するだろう(この作品に対しての評価が大きく別れる部分に違いない)。しかしどんなストーリであったとしても、ミルカにおいて走るということの特異性は、全く失われていないということだけは確かだ。
彼はなぜ、走らなければならないのだろう? 意志としての外的動機と内的動機。偉人物語の多くは、ほぼ内的動機によって描かれるが、ミルカ自身も例外ではない(ご褒美としてのミルクは除く)。ただこの物語が面白いのは、ミルカにとって走るということが「原因」と「目的」という両義性を抱えている点にある。走るということ、それは金メダルを獲るための目的でもあり、トラウマの原因でもあった。そして「経験に与える意味」をつかもうとするミルカが存在する。このような見方を学ぶきっかけがこの物語にはある。 END
「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」などの診断基準は、アメリカ精神医学会によって下記の本にまとめられている。
参照ページ「外傷後ストレス障害 – 脳科学事典」
『ミルカ』の作品に関しては、字幕翻訳した松岡環さんのブログを読むこと!
『ミルカ』萌え~<その1>ミルカ・シンって誰?
アドラー心理学に関しての鼎談
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今なぜ多くの人に求められているのか
宮台真司×神保哲生×岸見一郎 鼎談(前編)
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