『悼む人』の動機を巡って

2015年2月20日

悼む人

 

★★(2/5)

 

 

人の意志や行動は、その目的が語られた時にこそよく分かる。目的が実現される過程において様々な困難が描かれる。これは物語の基本構造である。物語の効用は、他者を理解することによって量られる。ただしこのような目的としての物語が排除される場合がある。それは、幸福や不幸、善や悪といった認識をあらためて考え直すようなテーマにおいて実行される。

 

 

 

 

主人公・静人(高良健吾)は、なぜ死者に対して悼むのかを、自分でうまく説明できない。仮に、彼がとてつもなく崇高な精神の持ち主であったとしよう。彼の行動はその崇高さ自体によるものかも知れない。けれども人々はそれを不可解なことと見なし、やはり理由を求めるだろう。これは物語の宿命でもある。彼を理解するためには、やはり目的が必要なのだ。雑誌記者・蒔野(椎名桔平)の仕事ぶりは物語を紡ぐという点において非常に象徴的だ。大衆は事件に対して何らかのイメージを共有する。だから理由が作られる。蒔野はそのイメージの煽動に長けているが、静人に対してはやはりその目的を聴かざるを得なかった。

 

 

目的論の否定

 

トラウマを描いた『ミルカ』、そして他者の死をテーマにした『おみおくりの作法』と立て続けに観てきたが、死や幸福に関するテーマとして認識すべきことは、いまある生は時として過去に原因を求める場合があるということだ。いまある苦しみの意味を求めるために、過去が引き合いにだされる。死者に対するイメージの構造も同じで、人に起こった悲劇を嘆き語るということは、ある意味、いま感じている自分の悲しみを死者の悲劇として投影しているのである。死者は何も語らないが、人は幸福や善の意味を物語として過去に求めてしまうのである。

 

静人はこのような物語には一切関知しようとしない。つまり、いまある生の意味(幸福や善)を考えるために、目的論的に過去を見つめるという行為を否定しているのである。むろんそのような目的を持つ行為から離れて彼の行動が描かれる。だから、彼は死者に対して「誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されていたか」を思念するのみであり、いま現実にある問題を過去に投影しようとはしていない。彼は自分の行動を病気のようなものだと言う。彼の動機は「目的の否定」においてしか語ることのできないことだ。

 

っと、ここまでは★3.5なのだが…。

 

 

本作品を悼む

 

目的論的にみることの否定。静人の動機の伝えられなさは、「映画の物語」として映し出すのは難しい。ましてやそれを言葉だけで表現するのはもってのほかだ。僕がこの作品のマイナスポイントとして特に挙げたいこと、それは静人の行動によって体現されるような思想が、映画自体の構成と相反していたことだ。例えば静人の動機は、ある人物によって描かれる(描かれてしまう)が、言葉になった途端に、静人は自分で意志を説明することのできない、ただのどんくさい青年として感じられてしまった。逆光(ライト等による演出)がとても印象的な作品だが、ただそれだけが映画の可能性ではないのだ。 END

 

 

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