★★★★+(4.5/5)
人は自分自身で選択したことに対して後悔することは少ないだろう。もちろんこれは自由意志の下での選択が前提である。トラウマにおける物語論と重ねてみてもよくわかる。体験における意味、それは過去に起きたことではなく、起きたことに対してどう行動するかによって決まる。 ※参照
主人公クリス・カイル (ブラドリー・クーパー)は、どんな事態に対しても常に自分で選択をしていくような人物だった。スナイパーである彼が、味方が銃弾を浴びる様を見て、たんに遠くから覗いているだけではだめだと言うその姿はやはりヒーローそのものでもあった。ただし、そのことがこの映画の本質であるわけではもちろんない。大事なのは、そんな彼が自身の物語として回収しきれない現実に出会ったような時に、それをどう受け入れたのかを確認するということだ。
壊れた花瓶の理論
『トラウマ後の成長と回復』という本の中で、「壊れた花瓶の理論」という例え話がある。花瓶を落としてしまったとしよう。少々壊れた程度なら多少のズレはあったとしても、人は元の姿へと戻そうとするだろう。ちょっとした事件であるのならば、その結果を自分が抱く既存の世界観へと「同化」させていくような姿でもある。その一方、もし花瓶が粉々に砕けてしまったとしたら…。これはトラウマに取り憑かれた人間が、過去の自分を取り戻すべく奮闘する姿、悲劇と同じことでもある。むしろそのような回収しきれない現実に対して事実を受け入れ、粉々になった破片で新しい何かを作っていく。これを「適応」と呼ぶ。自分の経験に意味付けするとはこういうことだ。
だからクリスのアイデンティティは、どのようにして形成されたのかが重要となる。人間(クリス)の、世界に対する捉え方(生き方)は、自分の生まれた土地(テキサス)や慣習(キリスト教)によって形成される。強いアメリカを表象するような番犬としての役割。自由を愛しそれを行使するために、野蛮である狼には決してひるまないという原理がクリスに働きかける。『アメリカン・スナイパー』が印象的なのは、そのようなクリスの実存が、アメリカの現在進行形としての在り方にも重なってしまうということだ。
こうして振り返ってみると、クリント・イーストウッドによって作られた苦悩する主人公達、とりわけ教会の椅子に佇む人間達の姿は、自身の物語との葛藤(同化と適応の狭間)の姿でもあったわけだ。世界(土地や慣習)が作りあげた物語であるはずなのに、自分の問題としても戦ってしまうような人間の姿。クリスはその時バーにいた。違った風景に適応していくためには、新しい物語を作りだしていかないといけないが、それはとてつもなく難しい。ただ自己決定しようとする人間の姿はやはりとても美しいのだ。
『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)
パラレルな世界
日常と非日常という区分けの文法は、もはや戦争映画に関わらず古い見方なのかも知れないと思った。テクノロジーによって遠くにあった戦地が日常と隣り合わせとなる。ドローンによる空撮はもはや当たり前となった。戦場における緊張感は、クリスと平和な象徴であるはずの妻(妊婦)との会話によっても演出(パラレル編集)される。ヘリの音、ドリルの音、そして様々なシーンでの射撃音を思い出してもいいだろう。境界無き世界は、音の異化によっても現れる。
『ブラッド・ダイヤモンド』 (2006年)
境界無き世界において、彼女の日常もまた戦場へと変わる。
違った風景がどんどんと浸食してくるような感覚。映画館を出るとクリスの見てきた風景が、小さなトラウマとなって僕自身の物語にも焼き付けられる。物語をみる(読む)という行為は、こうした心の傷を捉えようとする動機にも通じてくる。『アメリカン・スナイパー』から何を感じとったのかを反芻してみること。きっとこれからの人生においても、この作品に対する体験は変わっていくのだろう。 END
なぜ映画を観るのか?
追記