『妻への家路』/人間であるという運命

2015年3月14日

妻への家路

 

★★★+(3.5/5)

 

 

全ては運命に囚われた人間描写。このように捉えながら映画を観るようになると、人はみな何かしら過去の呪縛に囚われて生きているのではないかと思うようになる。何か目標を抱くことは、賢くそして濃密に生きることの支えとなるが、それは一体どこからやってくるのだろう。栄光の影に挫折があるように、素晴らしい目標の影には様々な記憶としての過去がある。

 

 

 

 

『アメリカン・スナイパー』では自分の抱く目標、とりわけ主人公カイルの持つ志向性は、幼い頃に過ごしたテキサスという土地柄、また国家に尽くし隣人を助けるといった使命感の中で鍛え上げられた。そのようにして《作られた》意志が壊れてしまったような時に、カイルはまるで自身だけの問題として捉えてしまう。歴史は偉大だが、時に残酷的なものとなる。歴史が忘れ去られたような時に、動かしがたいの運命としての物語がやってくる。

 

 

そのような歴史の奇妙さの中で、家族3人の姿が描かれる。文化大革命という大きな物語に対して、妻への家路を目指すべく夫ル・イエシーの《悲劇》の受け止め方は実存的でとても心強い。「経験とは、あなたに起こった出来事ではない。あなたに起こった出来事を、あなたがどう受け止めたかである」というように、まるで運命を悟ったかのような父親の存在。その一方で《悲劇》に囚われてしまった娘タンタンの姿がある。

 

 

 

人間であるという運命 

 

そんな彼女の姿は、人間であるという運命を表す象徴的な存在だ。バレエをする姿やその背景となる音楽は、プロパガンダという過酷な歴史描写とは裏腹に日常の美しい風景をも見せてくれる。そして同時にそのひた向きな姿には、ある《裏切り》の根本となってしまうような側面もあった。歴史という運命が彼女の弱さを映し出す。人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題なのだ。人生において重要なのは、あらゆるものに対してそこに強さを見出すよりも、いかに弱さを感じ取るべきか。この作品を観てつくづくそう思うようになった。

 

 

物語序盤、雨が降り続ける中で時代の運命を背負ってしまった娘がひたすら父を追及していくシークエンスが特に素晴らしい。ストーリーにおいて3人の関係がまだあやふやだった頃、父と娘が再会し、そしてまた乖離していく関係がある。人間であるという運命が、これほどまでに切なくそして美しく思えるのは人間の存在を不可避的に措定してくる得体の知れぬ「なにものか」が描かれているからに違いない。

 

 

予告を見ても分かるように主題は記憶の喪失だ。手紙や音楽が媒体となって失われた愛を紡ぎだす。たとえ近くにいたとしても夫にとっては遠くにいる妻の存在。愛はその関係から何を得るのかではなく、相手に何を与えるか。夫の行動は、マザー・テレサやアドラーが唱えた愛の形態そのものだ。このような接し方を意識に持てば、それは人生の経験における大きな要素となるだろう。人間の意志だけでは変えることのできない世界において、そのような宿命への克服は、実は近くの小さな目標の片隅にあるのかも知れない。そういう映画だ。 END

 

 

 

存在を不可避的に措定してくる得体の知れぬ「なにものか」

人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題だけである

 

 

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