『レヴェナント: 蘇えりし者』/妄想の描き方

2016年5月10日

revenant

 

 

 

この作品は、宗教や神、そして民族の多様性や個々人の幻想といった様々な切り口によってテーマを紡ぎだすことができる。言うまでもなく、泰然自若とした大地を前にして、復讐や虚栄心といった人の志向性はいかに無力であるのかを悟る映画だ。

 

 

 トレーラーも芸術のひとつ。息づかいの表現が素晴らしい。

 

 

主人公であるグラスは過酷な世界の中で、ただ復讐のみに生きる男だ。大自然の中で彼が行うべきことは、目の前の脅威からただひたすら自分の身を守ることだけである。グラスは意志を貫き行動しているが、それが彼にとって自由であるのかを問われるならば、間違いなく不自由な生き様を強いられているとしか言いようがない。

 

余命いくばくのない男が子供達のために奮闘する『ビューティフル』も全く同じで、彼が橋の上から眺める黄昏の風景は、グラスの眺める圧倒的な自然と同じく、人智の及ばないような領域にある。

 

 

 『ビューティフル』(2010年 イニャリトゥ監督)

 

 

無論、それら風景の背後に描かれている世界は「クソな社会」だ。世界は元々殘酷であるというフレームが物語全体を構築している。そのような世界は、宮台真司氏の言うように、理想としての社会に対して障害物が主人公の前に立ちはだかる、といった構図では描かれていない(下記リンク参照)。イニャリトゥの描く主人公が、理想を語ることなくただただ不条理さながらの現実を生きているのは、そもそも<世界>はデタラメだからであるというフレームが物語を覆っているからだと考えることができる。

 

前作の『バードマン』が貫く妄想の俯瞰的ショットは、世界は自分が思うような運命には従わないという物語を土台にして<喜劇>となる。『レヴェナント』においてグラスが抱き続けていた断罪としての意識も、彼が神に委ねざるを得ないような選択をした時に、それがとてつもなく<滑稽>であったかのような感覚に囚われてしまう。過去の記憶や妄想は、人の認識と世界の間の潤滑油のような役目を果たすが、イニャリトゥの作品を観ていると、そもそも人はそのような<妄想>を前提にしか世界を見ることができないのだと痛感するようになる。

 

 

宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ

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