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『コンビニ人間』/会話と対話

2016年10月9日

コンビニ人間

 

 

パッと立ち読みをして「コンビニ店員として生まれる前」という言葉が印象に残り、この本を手に入れた。主人公の古倉がコンビニ店員として生まれた日。彼女の世間や他者に対する感覚は、どのような世相を表現しているのだろうか。「◯◯として生まれた日」。これと同じような文言が『イコライザー』という映画の冒頭でも紹介されていたのを思い出す。『トム・ソーヤーの冒険』の著者で知られるマーク・トウェインの言葉だ。

 

人生で一番大事な日は二日ある。生まれた日と、なぜ生まれたかを分かった日。
“The two most important days in your life are the day you are born and the day you find out why.” – Mark Twain

 


人は世界を解釈し、それら解釈の中から生まれた物語を他者と共有しながら生きている。自分と世界の境界を分け隔てることをポジティブな感覚で、または日常生活においてその境界を意識することさえしなければ何も問題は無いだろう。

 


しかし中には他者と共有すべき物語をカッコ付きの「物語」として捉えてしまう人間がいる。主観性を乗り越えるべくその解決方法として、世界とは人と人との約束事において成り立っている(間主観性)と捉えるならば、そのような約束事を「常に意識」してしまうような人間だ。主人公の古倉と他者との会話がちっとも楽しそうに感じられないのは(この小説が面白くないという意味ではない)、著者の世界に対しての共通感覚をあえて拒んでいるかのような姿勢がこの作品には多くちりばめられているからだ。

 


会話(conversation)はあるが対話(dialogue)はない。人間の本質はコミュニケーションであると言われるが、そのような考え方を貫くとコミュニケーション以外の出来事が、付随的な物事に見えてしまうと感じたことはないだろうか?

 


『オープンダイアローグとは何か』という本の中で著者の斎藤環が社会学者のニクラス・ルーマンを引用して「社会システムの廃棄物」と呼ぶのものは、古倉の世界に対する「住みにくさ」そのものだと捉えることもできる。それは、付随的な物事の中で奮闘する人間模様を古倉が外側から眺めているような感覚そのものでもある。「会話」とは、そのような感覚の中での人間の一方向性としての意思疎通でしかない。そこに人間のコミュニケーションそのものの可能性を取り入れたのが「対話」であるとするならば、やはりこの物語には「対話」はない。もちろん、それはこの小説自体の戦略に違いない。

 


古倉の世界に対する生きづらさとしての感覚は、そのような世界をカッコ付きの「世界」として感じ取ってしまったゆえの宿命のようなものだろう。ただし彼女は他者との「対話」を望んでもいるというわけでもない。つまりこの小説は世間においてコミュニケーションが必要だとは言われつつも、ある一方向的な「会話」の中でしか生きることのできない人間たちのアンニュイさを描いているのではないだろうか。それがコンビニ人間として生まれるということ。読み終わった後に、なるほどなっ、て感じた。

 

 

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