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『彷徨える河』/どのようにして人は花を見つけるか

2016年11月10日

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長い前置き 構造主義について 

 

文化人類学者であったレヴィ・ストロースは著書『悲しき熱帯』の冒頭で「私は旅と探検家が嫌いだ」と述べている。これは多様性を排除することで真理を見いだそうとする学者の立場としての皮肉でもある。しかし、彼の思想から継承される構造主義の考え方は、複雑な関係性の中でしか捉えることのできない「関係性」そのものを探求していくような姿勢に根ざしている。文化人類学が面白いのは、一つの真理を見出そうとする欲望がありながら、正反対であるはずの多様性の枠組みの中でしか語ることのできない、その不可逆的な態度にある。

 

 

悲しき熱帯 (上)

 

 

私たちはいつの間にか言葉を覚え話している。不思議なのは、世界を形成しているはずの言葉が、逆にその対象とすべく世界からも要請され、切り離せないような関係性にある。

 

言語によって虹の色の種類が違うように、言葉によって世界は分断され人間は目の前の風景を認識している。逆に言えば、その言語の住人にとって、その言葉そのものが世界の全てとなる。なぜ日本で虹は七色なのか? 結局そのような問いかけが生じるてくるきっかけは「他の言語と違うから」という認識のみにおいてある。これは言語学の「差異」という概念にも通じる考え方だ。言葉は関係性の中でしか意味を見出すことができない。

 

アイデンティティを探ろうとするのも同じで、自己という色の分析は、なぜその色なのかという問いかけだけでは解決しない。そもそも問いかけとして成立しないのだ。なぜなら「他者の色と違うから」という認識においてしか、自己を見出すきっかけを得られないからだ。関係性のみを意識した態度においてその構造が顕在化してくるというのが、構造主義を捉える上での考え方となる。

 

そのような態度を意識した上で、改めてこの映画のストーリーをなぞってみる。

 

 

 

 

主人公であるカラマカテが一人孤独に奥深き森に住み、アイデンティティーを失っている。あるいは他者そのものが存在しない中で、アイデンティティという意識さえどこかに置き忘れてしまっている。この物語は、彼がいかに「記憶」を取り戻すかというストーリーでできている。人間の在り方を旅全体で表現したような映画だ。

 

 

探し求める花

 

花に自己を投影しているカラマカテが探し求める真理というものは、空虚なものでしかないのだろうか? 私が感動する物語を求めてひたすら映画館へ通う行為もしかり。またセレンディピティなる運命に身を任せて書店で本を探しまわっている時も同じで、自分自身が感動し面白い「花」を見つけたいと認識している間は、結局何もしていないのと同じではないだろうか。自身の色は積極的(関係性においてではなく)な態度で見出すことは難しい。「あれほど遠くまで探し求めに行く真理」は、そのような態度から一番遠く離れた場所でしか見出だせない。

 

純粋に美しい「花」を見たいという欲望もまた信じがたい。何事も自分の欲望は他者の欲望にしか過ぎないとしたら? それゆえに記憶を失ったカラマカテのような存在、そして旅を通じて世界の記憶を呼び戻そうとする彼の姿は、どんな人の生き方にも重なってくるのだろう。

 

 

参照文献


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