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『この世界の片隅に』/異化という作用

2016年11月20日

この世界の片隅に

 

 

たまたま戦争の時代に生きていた普通の人たちの日常の物語。日常とは、むしろ何も記憶に残らない風景であるはずなのに、どうしてこんなに涙腺を刺激するのだろう。

 

 

 

 

昔、ロシアの芸術や文学論に傾倒していた時に、「異化」という言葉を知った。異化とは日常生活を覆っているような思考の塊を、改めて違った方法で捉えようとする試みのことだ。それは普段自分が「自動」的に捉えてしまっているような現前の風景を、違う言葉で表現しようとする試みでもある。もちろん言葉以外の手段にも当てはまるだろう。主人公のすずが、白波をうさぎで描写してみせる行為も異化としての作用なのだ。

 

 

散文の理論

 

 

小説を読んだり映画を観るということは、自分に何かしらの異化作用が与えられるということを期待する。ただし、異化とはたんに今までとは違う風景を見るということではない。それはむしろ、何気なく料理や裁縫をするすずの姿をボーッと見ているうちに、いつの間にか様々な素材の変化を楽しんでしまっているような、あの奇妙な感覚として捉えるべきだろう。

 

何気なく見ていたはずのモノが、ある視点が挟まれることによって、如実に「意味」としての存在に置き換わる。そのようなイメージの分節化が至る所にあるというのが、この作品の特徴ではないだろうか。極端に言えば、すずを取り囲む世界の優しさというのは、すずやその周辺の人々がそうしている訳ではなく、すずの見ている風景の方法が、見ている者にもそう感じさせているのだ。それはこの作品のアニメ手法そのものと言っていい。モンタージュ理論しかり。例えば片腕の面影に寄り添う少女の姿は、優しさという意味の在り方を改めて考えさせてくれる。

 

異化への期待。人は単純な日常を常に楽しむことができたなら、どんなに幸せなことだろう。それは「戦争という日常」の中でも恐らく同じことだ。むしろ異化の作用を積極的に利用して、生活の意味を探ろうとするのが芸術的な態度としての在り方だ。もちろん、すずのようにちょっとした合間に絵を描いてみるだけでもいい。だからこの映画は、過去の戦争の中で生きていた人々というよりも、たまたま戦争の時代に生まれてしまった、普通の人々の喜怒哀楽の「塊」でできている。

 

 

参照文献


 

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