『ジュリエッタ』/アルモドバルのナラティブセラピー

2016年12月3日

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『ジュリエッタ』を堪能した後に、ペドロ・アルモドバル監督の『オール・アバウト・マイ・マザー』『ボルベール〈帰郷〉』を観返した。母と子または女の生き様。忘れ難い記憶と、再生。それら物語に共通するのは、自己の想いが届かぬ者への語り、である。

 

 

 

 

アルモドバルの描く日常シーンには、郷愁的でトラウマティックな雰囲気が詰め込まれている。特に『ジュリエッタ』は、独白によって紡ぎ出され、サスペンス風味も散りばめられているから、過去によって縛り付けられた残酷さとしての記憶の一面が、より際立っているのだろう。

 

独白によって描かれる過去の記憶。例えば手紙は、そのために利用される顕著な道具だ。綴られた言葉は、苦い思いを呼び戻し、現世の気持ちを表現するために使われる。ただし、アルモドバルの描く記憶は、人がたんに過去を語るということと、人生を「ナラティブ」として表現することの違いを認識させてくれる。

 

「ナラティブ」は、人の喜びや苦悩の原因を、社会の中のある特定の出来事や人間に対して求めようとはしない。情動は、語りの手法よって、つまり話者の言葉によって見出されたもの(構築されたもの)として見なされる。だから、アルモドバルの作品を観て「どこ」に感情を揺さぶられたのかを自問しても、うまく答えられないのだろう。なぜなら、主人公がある特定の困難を乗り越えたり、目に見える物や者に対して目的を達成していくような物語ではないからだ。

 

画面の中の際立つ赤色。物語全体がまるで白昼夢であるかのような演出も相まって、語るということの行為自体が苦悩の表現であり、また再生としての意味であるということを認識させてくれる。「ナラティブ」の視点に立つということは、主人公を観察するだけではなく、主人公の語りとともに世界を見るということでもある。そこに主題はない。あるのは、語るという行為による人生の創造のみだ。

 

街の風景、オシャレな服装、流れる歌や楽器音。それら全てを「ナラティブ」として捉えるというのは行き過ぎなのかも知れないが、アルモドバルが描く日常を通して世界を眺めるということは、女性に対してのみならず、何かを新しく創造しようとする者に対しての讃歌でもあるのだ。

 

 

参考文献


 

 

原作は2013年にノーベル文学賞を受賞したアリス・マンローの連作三篇(「チャンス」「すぐに」「沈黙」)。

 

 

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