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『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』/孤高さについて

2017年1月8日

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人間は、道徳に基づき公共性に根ざした存在である。その一方で、道徳を問うことによって、本来人間が孤独な存在であることを意識せざるを得ない時がある。その孤独さゆえに、人間の条件としての問題が立ちはだかる。それはどのような時に現れるのだろうか?

 

 

 

 

自身がユダヤ人である検事長のフリッツ・バウアー。彼はアイヒマンを追及するがために奮闘しているが、その行動は決して復讐のためではなかった。彼の動機を目の当たりにする限り、そこには彼自身の倫理性の問題だけではなく、人間の運命としての孤独さも感じ取れるだろう。それこそが、道徳的であるがゆえの孤高さだ。

 

現代の難民問題よろしく、国家による統治から外れてしまった人々を「ホモ・サケル」と呼ぶことがある。その存在はローマ時代から認知されていたという。そのような人々は「神の法からも外に置かれ」、法によって守られなければならないという必然性は存在しない。ナチスによる大量虐殺は、ユダヤ人に対して、無権利状態を課すことを戦術としていた。ホモ・サケルとしてのユダヤ人は「人間」としての存在を認められなかった。

 

国家によって、人々には市民としての条件が付与される。しかし、そのことと、個々人に対して「人間」としての権利が与えられるということは、また別の問題であるということを認知しておかなければならない。法による統治は、国家の枠組みにおいて市民を形成するためのものであり、必ずしも「人間としての条件」を形成するものではないのだ。

 

そのように考えると、バウワーの部下であるカール・アンガーマンの道徳的であろうとする行為も、いかに孤独な行為であるのかを認識できるだろう。彼は実在していた人物ではないが、彼の犯したある「犯罪」も、その時代のその国の中で生きている限り、もはや不幸な運命でしかなかった。アイヒマンを追うということとアンガーマンによる決断は、人間であるという運命によって、二重の意味で紡がれているのがよく分かる。つまり、それはバウワー自身に他ならないわけだ。

 

罪自体も社会によって構築されたものだという認識が、この物語によって喚起させられる。道徳すらもその時代の社会性に基づくものだとしたら? 人間自身であろうとする意思、または欲望であるはずなのに、時にはそれが公共性と対立するものであり、またその時代から孤立さえするのだ。あまりに抽象的な国家という枠組みであっても、そこからは決して離れることのできない(意識せざるをえない)人間としてのサガがある。この物語は、人間と時代の交錯をうまく表現していたと感じた。私も、自己の信念を貫くがゆえにパーティーを抜け出すアンガーマンの程度には孤高でありたい。

 

 

参照文献


 

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