『人はなぜ物語を求めるのか』/「ラ・ラ・ランド」「カフェ・ソサエティ」

2017年5月13日

人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)

 

 

映画「ラ・ラ・ランド」と「カフェ・ソサエティ」には「ありえたかも知れないもう一つの人生」についてのテーマがある。映画館を出た後で、郷愁の念に捕われる間も無く、より具体的にその主題を洗い出してみたいと思った。様々な物語と接する過程において、または自身の過去を反芻する行為において、度々湧き上がってくる問いかけではある。もしもあの時、自分が別の選択をしていたら? 過ぎ去ったはずの過去の記憶からなぜかもう一度逃げ出したくなるようなこの心境は、どのように捉えてみたら良いのだろう。

 

 

『人はなぜ物語を求めるのか』を読んだ。ストーリーは、人の世界に対する認知を助長する。ナラティブ・セラピーやロシア・フォルマリズムといった物語分析は、もはやそれ自体が感性豊かな世界観で満ち溢れている。しかしその半面、ストーリーこそが人をも苦しめる場合がある。ストーリーにはジレンマがあるのだ。たんなる偶然でしかないような出来事に、何かしらの原因を求めてしまうことは良くあることだ。悪い事が生じた後で後悔するのは嫌だからと厄払いを行うことも、その最たる例のひとつだろう。だからストーリーに対してメタ的な視点を持つことは重要で、そのような認識を持つこと自体が反芻としての方法でもあるし、また内省という行為でもある。

 

 

「ラ・ラ・ランド」に登場する男女はお互いを見つめ合い、「カフェ・ソサエティ」では別々の場所で相手を見つめていた(作品を観ればあのシーンだと分かるだろう!)。いずれにせよ彼ら彼女らの頭の中で、様々な可能性を持った人生のストーリーが交錯していたのは間違いない。そのような多世界解釈の中で、他者のみならず様々な可能性を抱いた自分と出会う。

 

それと同時に、自分自身はやはり「この私」に他ならないという現実さにも圧倒される。可能性を想像すること自体が確かな自己を前提としているわけで、各人それぞれの「私」ではなく、あくまでも「この私」としての存在に圧倒される。私には多くの選択肢があったのかもしれないが、「この私」以外は決して想像できぬ現実さ。

 

「この私」について言及している書籍と出会う機会は本当に少ないが、『人はなぜ物語を求めるのか』においては、因果関係、つまりストーリーで捉えるのに難しい問いかけとして「なぜ(ほかのだれかではなくて)私が?)」(p.96)が取り上げられている。また私が思い付く限りで言えば、神谷美恵子は著者『生きがいについて』の中で、「なぜ私たちでなくあなたが?」と問うことによって、たんなるあなたではなく他者の内に潜む「この私」を見出しているし、批評家の柄谷行人は「この私」を「単独性」として考察している(例えば『言葉と悲劇』「単独性と個別性について」)。

 

そして、人は「この私」を想起したような時に「意味」を希求するようになる。意味とは「なぜ◯◯なのか? なぜなら△△だから」というストーリー形式の枠組みでは捉えることのできない、ある種その人の生き方に関わってくるような態度のことだ。つまり「この」が帯びる単独性を意識することによって、人は世界に対して「なぜ」と問うことをやめ、自身のストーリーを創り出す努力をする。つまりそれは、既存のストーリーに頼るのではなく一度限りの人生において、しかしその瞬間が永遠と続くよう態度で目の前の道を選択すること(永遠回帰)。様々なストーリーと現実とのギャップは、人生に抗う要素ではなく「意味」を考察する上でのきっかけと見なすべきなのだろう。

 

 

参照文献


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