『わたしたち』とABCDE理論

2017年10月8日

 

 

「出来事それ自体」から怒りや悲しみといった感情が生まれる、という認識は短絡的だ。この作品を通して気付かされること、それは「出来事に対する解釈」によって世界が変わり自分の行動も変わっていくということだ。「成長する」ということはそういうことだ。

 

ある人生の突発的な悲劇との出会い、とりわけ物語として提示される主人公への苦難の仕打ち。ある難題に対してそれを乗り越えようとするプロットは、感情を表現しテーマを伝えようとする際の大きな戦術だ。しかしその出来事に対して、主人公の解釈が変わり、世界そのものが変わっていくという図式は案外少ない。大抵のヒーローは、出来事とそこから湧き上がる感情は一体なのだ。出来事に対する解釈のことを「ビリーフ」と呼ぶ。そして目前の風景に対して、ビリーフが変化するという瞬間がこの物語には存在する。

 

 

少女ソンは学校でいじめられ、いつもひとりだ。だが孤独としての状況にそれを苦としてあまり受け止めていないような彼女の表情が私にはとても印象的だった。家に帰れば親と普通に会話し、弟の面倒を見ている。このたんたんとした時の流れは、いわゆる日常性としての描写である。人はたとえどんなに楽しくまたは悲しい出来事を体験したとしても、それをそのままに受け止め苦楽としての感情を表現している限り、実はそこには「変化は存在しない」。少なくとも「ビリーフ」という認識においては。そして、夏休み前に出会ったジアとの関係性に伴うソンの変化が、その日常性を重ねることによって、より浮き彫りにされたのだと私には感じた。

 

「ビリーフ」とはアルバート・エリスの論理療法(REBT)で使われる言葉である。人の悩みは、出来事そのものから生じるのではなく、その出来事に対して人がどう受け止めたかに由来する。いわゆるABCDE理論である。Activating event(出来事)があり、その出来事に対してBlief(ビリーフ、固定観念)としての解釈が存在する。そしてConsequence(結果、悩み)が生まれる。だから、ビリーフを変えさえすれば出来事に対する認識も変わるはずだ。そのためには、非合理なビリーフ(イラショナル・ビリーフ)に対しDispute(反論)を行ない、その人にとってより良いEffects(結果)を志す。

 

 

論理療法の理論と実際

 

 

つまり論理療法とは、たんに出来事そのものを悩みの原因とは捉えないということだ。出来事と感情との間には、その人のもつ解釈としてフレームが介入する。まずはそのフレームを疑うこと。ゆえに「ビリーフ」という認識において、たんなる日常性としての描写には「変化が存在しない」ということを説明できる。悲しい出来事から悲しみの感情を表現したとしても、またたとえ難題を克服し笑顔になったとしても、それは出来事をただ伝えているだけなのだ。そこに「解釈の変化から世界への態度も変わり行動も変わる」という描写が加わらない限り、なんら変化は存在していないのと一緒だ。ソンの日常的な家庭の描写はともかくとして、学校のクラスで起こるある出来事の中で彼女がたとえ感情をむき出しにしたとしても、彼女の表情がたんたんと感じられたのは、そのことが原因ではないだろうか。

 

だからこそ、ソンのある瞬間のビリーフの変化が映えてくる。

 

成長するとは、こういうことなのだと思える瞬間だ。それは大人である「わたしたち」も一緒だ。ズルズルべったりと出来事から得る感情をそのまま表現するだけでは、人はいつまでもたっても子供なのだとつくづく思う。

 

自分のビリーフを支える根拠は? それは本当に事実に基いている? そして自分だけではなく相手を幸せにすることができるビリーフなのだろうか? ソンの表情から読み取れる感情の変化が、身の回りの世界と行動を変える。無論、全てのビリーフを疑っているだけでは進歩はないが、それでもそうすべきであるという信念を持つということの意味を、あらためてこの作品から受け取ることができるのではないだろうか。

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