『ブレードランナー 2049』/『心理療法の未来』

2017年11月5日

 

 

 

過去に出会った人の顔を、ふと思い出したい時がある。そんな時に必要なのは、できるだけ明確なあの瞬間、あの場所の強烈なイメージの想起だ。それは、その日の天気かも知れないし、相手の声のトーン、もしくはその日に自分が着ていた上着の色なのかも知れない。全てが記憶としての舞台装置だ。無論それらは「自己」の記憶だ。

 

 

 

 

自己と向き合うことによる記憶の省察。過去と向き合えば向き合うほどに、自分という存在の不確実性と向き合うことになる。これがレプリカントを追うブレードランナーの基本的な実存的構造だ。ブレードランナーに与えられる葛藤は、現実と虚構との間の曖昧さだが、今作の『ブレードランナー 2049』では、より具体的に「記憶の個別性」の問題が浮かび上がる。

 

ブレードランナーであるKが手に取る木彫りの馬。それは彼自身の実存を象徴するモノであった。何かのモノに固執し、記憶をオーバーラップさせていく。本当にそれは自分の記憶か? それは例えば心理療法における「物質的対象性」に対する「心的対称性」としての歴史的な変遷を重ね合わせると興味深い。

 

人の「悩み」は、特異な体験そのものが原因ではない。あくまでも、体験に対する人間の「想像性」がその「悩み」を生み出す原因となる。そしてその想像性は誰もが抱いているものだ。フロイトが生み出したのは、万人にとって「悩み」を持つ可能性を抱く「心因」としてのフレームワークだ。それ以後、神経症は、心における何かしらの欠如を意味するようになる。すなわち、ある特定の狂気そのものではなく、万人にとって意味の欠如としての問題は、心の問題であるというパースペクティブができあがる。Kから感じる人間性としての痛みは、Kの「想像性」を共有する私たちの視点そのものが、すでに「心」というフレームワークを前提としているからだ。

 

高度な技術によって創り出された女性としてのイメージが「本物」の人間と重ね合わされるシーンも印象的だ。ただしこれはすでに体現されている世界である。イメージの女性と共に過ごすKの姿は、記憶をオーバーラップさせて生きる人間となんら変わらない。むしろ、人があのような世界に近づくのだ。「物質的対象性」に対して悶えるレプリカントの世界に対する眼差しは、心理療法の歴史で描かれてきたような認知の変遷そのものだ。

 

実存=記憶の技術が顕著に実現した未来の世界。創り出された記憶そのものを、「本当」の実存として受け止める日は、実際にやってくるのだろうか? ひょっとしたらそれは、このドゥニ・ヴィルヌーヴ作品のようなじめっとした映像質感を体感するのと何ら変わらないのかも知れない。無意識は「発見」されたのではなく「発明」されたのであるならば、本当の人生という意味の捉え方もきっと変わるはずだ。

 

 

参照文献


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