『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』/趣味判断と合目的性について

2017年11月12日

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」 (光文社新書)

 

 

分類について

 

混沌としたモノの集まりの総体を「世界」とするならば、人が集まり対話をおこない、意図に適ったモノを創り出していく行為の総体を「社会」と呼ぶ。デタラメな「世界」と、コミュニケーション可能な「社会」。

 

もしくは、ポパーの3世界論。世界1は物的、生物学的、そして出来事の総体。世界2は個人の思考そのものの世界。そして、世界3は人々の意識によって生み出された客観的な世界を指す。例えばモノとしての書籍は世界1であり、書かれた内容そのものは世界2に属する。そして、それら内容が人々に読まれ人口に膾炙し、共通理念として伝搬していく様子が世界3の姿だ。

 

世界の中の目的

 

このような世界の分類において、とりわけ人間の意識する「目的」とは何かを考える。これが「美学」の思想を語る上での土台となる。たとえば、ロシア・アヴァンギャルドは美学を武器に様々な芸術作品を生み出した。無論それらの目的は、後の人間が歴史を語る上で再構成したものだが、世界を変えるという目的は、ただそれだけで人々を魅了する。人は美学によって世界を認識し、社会を変革しようとする。

 

それでは「美学」とは一体何か? 現代のビジネス思想において、それらの認識を再構築してくれるのが本書の役目なのだろう。

 

美学を鍛えるということの意味は、何か規則のない世界、または目的がないような社会において、どのように人は合意に基づき、創作していくのかを考えるということでもある。それは本書で述べられているようなヨーゼフ・ボイスによる「社会彫刻」の概念にもつながるし、また社会心理学において、ある出来事に対する個人の心因性と、第三者による評価の不一致を極力対話の方法によって解決しようとするナラティブセラピーの方法論にも重ねられるだろう。それらは何かしらの関係性を築く上で、現代の哲学思想に常に付きまとってくるような考え方だ。

 

自然の中に見出す美について

 

真っ赤なバラで埋め尽くされたオブジェは美しい。人はバラを「美しいモノ」として様々な手法で表現しようとする。一般的にそれら行為は芸術と呼ばれるが、『判断力批判』を刊行したカントは芸術を「技術」と捉え、厳密に「美」とは区別した。バラそのものは、人間に美しいと思われるために存在しない。つまり、人間によって何かしらの「意図」を持って作られた芸術は、自然における「美」とは対地されるものとして考えた。

 

それでは一体「美しさ」は、どのように捉えるべきなのだろう? カントはあくまでもそれを「趣味判断」であると考えた。つまり主観的な判断である。しかし、バラから感じるあの「美しさ」は本当に人間の主観的な認識によるものだけかと考える。このように自然=世界の中に見出すモノに対して、なんらかの意図を見出そうとする人の態度や在り方を「合目的性」と呼ぶ

 

自然は他の何かのためには存在しない。しかし、例えば血液を送るための心臓、そして血液を全身に行き渡らせるための血管というように、「目的」としての機能美を、人は自然そのものの中に感じとる。本来、自然が持つ内在的な美としての在り方と、人がそこから感じとる機能美としての美しさは相反するはずだ。なぜなら自然に目的を見出すことは、神の存在証明となんら変わらないからだ。事実、カントは「目的論」としてそれを退けた。美は美として独立し、人間は物自体としての美を認識することは不可能であるという考え方だ。

 

しかし、主観的であるはずの趣味判断に対してカントは「普遍性」を要求する。これはどういうことか? 端的にいうと、人はある「目的」のために社会を構築しようとするが、その目的とするような理念は、決して到達しえないような混沌とした世界を前提にせよということだ。つまり、人が自然の中に見出す「合目的性」としての姿は、あくまでも仮の姿であると認識し、カントは世界に対する独断論としての「目的論」を退けようとした。美学を見据えるとは、コミュニケーション不能な世界(他者)を常に想定せよ、ということである。

 

このような態度は、それこそ本書が取り上げているような法が裁けぬグレーのビジネスシーンや、現代アートの変遷において語られるべくして生じてくるような認識なのだろう。たとえば、元来の「問題を解決する」という目的であったはずのデザインの行為は、いま、目的それ自体を目的化し、それによって社会を構築していこうとするスペキュラティブ・デザインとしての志向性に置き換わってきている。そのような変遷において、自身の目的の根拠はどのように見出すべきか。混沌とした「世界」の中で美学を学ぶということは、「他者」に対する自己の反省としての態度、そのものなのである。

 

 

参照文献


にほんブログ村 本ブログへ
Copyright © 2017 アクト・オブ・リーディング All Rights Reserved.  プライバシーポリシー