『パッドマン 5億人の女性を救った男』の中の功利主義[感想・批評]

2018年12月28日

人は認知的にも主観的な世界にしか生きられないが、そのような世界の中でどのような生としての在り方を、この物語から汲み取るべきか。彼にとって妻への愛はあくまでも主観的なものだった。無論こうしてある程度の物語として提示されているわけだから(実話を元にした商業映画だという前提に立つわけだから)、その主観が客観的になることは分かりきっている。つまり彼の思いがある程度は他者へ伝わったことは確かだ。

 

けれどもどうだろう? 現実的に多くの人の多くの想いにおいて、他者への良き事としてのおこないは、そのほとんどが主観的な行動として終わっているのではなかろうか。パッドマンのおこないが、単なる主観的な意味での「快楽主義」として終わっていたとしたら?

 

 

 

 

もし他者へのおこないが主観的なものに終わってしまったのならば、その事は自分の欲望を好きなように生み出してくれる機械に自身の脳が繋がれている状態とどう違うのだろう。パッドマンの妻への想いとしての行動は、たんにその機械によって生み出された経験とどう違うのだろう。いささかSFチックなこの状態を「経験機械」と呼ぶ。この概念はロバート・ノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』の中で挙げた「快楽主義」に対する思考実験だ。良いと感じることをたんに幸福の状態であると捉えようとすることへの反論として生み出された。無論ほとんどの人は、たとえ本物と区別のつかない経験をその機械から得られたとしても、そのような機械に接続されて生きることを選択しないはずだ。望ましいと思われる快楽だけでは、人は幸福とは言い切れないからだ。ではパッドマンの主観的であった行動に、どう幸福を見いだせるのであろう。

 

信念を糧にして生きるということは、たとえそれが苦痛であったとしても選ぶべき価値はある。満足した豚よりも不満足なソクラテスを演じようとするのが人間の宿命だ。パッドマンにとって何も行動しないことは苦痛であった。何もしなければ村八分にされずに妻と普通に暮らせることも可能だったはずだ。一見何も行動を起こさない方が、多くの快楽を得られたはずなのに、彼は何を幸福と思い、それを選択したのだろう。このように快楽そのものではなく、自分が何を欲し選択するのかで、どのようなおこないが正しいのかを捉えることを「選考功利主義」と呼ぶ。しかしこの選考功利主義にも問題はある。

 

それは道徳哲学者のデレク・パーフィットの「見知らぬ人」という指摘だ。私は見知らぬ人に出会うが、その人はどうやら死に至る病気のようだ。私は同情からその人の病気が治ることを切に願う。やがて私はその人と別れ二度と出会わぬ関係となる。そしてこのように考える。その人の病気が仮に治ったとしても、切に願うという思いとしての行為は、私にとってより良き生としての在り方か。二度と出会わぬ他者への思いは、たんなる主観的な思いであって無駄なことではないだろうか。もしも、パッドマンのおこなってきたことが、このような実話として成立していなかったら、妻への愛は「見知らぬ他人」に対する欲求と同じであったであろう。

 

私はこの物語の中でパッドマンがたんなる快楽主義としての内省および困難を乗り越えた方法の一つに「自己への反論」があると感じた。それは自己に対してあまり期待しすぎないという姿勢だ。自分の内側にしかない幸福は、どのようにして価値として他人に認められよう。それならば一層のこと自己のプライドを捨ててしまえという考え方だ。これは単純だけれど合理的な思考だ。自己の思いを他人に押し付けることなく、ただただ行動が現実的な幸福へと繋がったと解釈すべきだろう。結果的に相手が変わればそれで良いのだ。自分はバカだと笑い罵るパッドマンのあの演説は、自己の内的価値に対する自己自身の反論ではないだろうか。

 

 

参照文献


 

第3章 われわれは何を最大化すべきなにか?

 

p.84 見知らぬ乗客

 

p.668

 

 

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