映画感想『僕たちは希望という名の列車に乗った』『希望の灯り』

2019年5月27日

僕たちは希望という名の列車に乗った』と『希望の灯り』。この2作品はこれからの時代の「ベルリンの壁」映画を観る者にとっては必見だ。

 

それぞれベルリンの壁による分断前と崩壊後の物語。理想が現実の自己を苦しめる、といった個人的内面の葛藤が、社会の中のとある「ドミナント・ストーリー」という背景において描かれる。いわゆる共産主義や資本主義という大きな物語に対して、今の日本では命をかけるほどにあまり闘争することはないけれど、常に理想を追い求めることからくるあのアンニュイな現実感を想像する程度には、どちらの作品にもグッと堪えるものがあるだろう。

 

 

 

 

『希望の灯り』の原作は、『夜と灯りと』に収められている短編小説で『通路にて』。作者のクレメンス・マイヤーによる半自伝的な物語でもある。巨大スーパーの通路にて繰り広げられる店員たちの些細な日常の物語というわけだが、そこに何かしらの普遍性を見出してしまうのは、やはり東ドイツと西ドイツの分断という暗い歴史の影が、そのまま映画の暗さをも演出しているからだろう。そんな暗さの中で訳者のあとがきにもあるように、「周縁」で生きる人々に対する光がとても鮮やかで美しい。

 

映画冒頭の「美しき青きドナウ」や、夜の店内を飾る「G線上のアリア」などは、お約束程度に多少のあざとさはあるけれど、いつまでも感じていたい風景ではある。特に「ある音」に着目し耳を澄ますことによって、日常の中のある断片を限りなく日常性から切り離してみせるといった演出には、やはり映画独特の美学が存在するのだと感じさせてくれる。そして、巨大スーパーに対する眼差しの変化。今ではショッピングモール的な位置づけなのだろうけれど、映画『フロリダ・プロジェクト』で感じたあのディズニーランドに対する強烈な「異化作用」を思い出すほどに、あの広大な空間を持つ構造物に対する認識は変わるだろう。

 

 

 

 

なぜ世界のあるまじき問題が、この私と私たちを苦しめるのだろう。『僕たちは希望〜』は「セカイ系」とは真逆のメッセージ性がところどころに垣間見れる作品だ。もちろん直接的にはそんな弱音など言葉として表現されてはいないのだが、個々人の支配する考え方の根底には、常にある種の社会的構成としての物語が交わってくる。

 

実話をベースにしたあの世界の高校生たちの生きた時間の延長には、いずれ『希望の灯り』のような暗さと光の時代がやってくる。「ベルリンの壁」を巡るいくつかの映画を観てきたが、それらすべての作品がそのような腑分けをベースに、私の映画史としての記憶を書き換えてしまった。あらゆる作品が彼ら彼女らの希望の先に存在するようになった。

 

ドミナント・ストーリーに囚われた人々を、時代の悲劇として客観的に語ることも可能だが、それは決して時間軸としての正しい歴史の捉え方ではない。新たな解決を模索するオルタナティブ・ストーリーとしての視点は、常に後からやってくるからだ。つまり、彼ら彼女らのその瞬間の選択が、最善であったのかどうかは決して誰にも分からない。そして、それは日々の日常における困難に対してもまったく同じことが言える。現実の苦しみを「支配されてしまった感情」として、また「歪んでしまった感情」としてあえて認識するためには、それを個人の問題としてではなく、その人を取り巻く家族や友人、そして社会の問題として語り直すことが重要だ。これを問題の「外在化」と呼ぶ。しかしそれが難しいのは人生というものが、極めて偶然的な要素にまみれているからだ。この偶有性を忘れて、自己の運命と捉えてしまったような時に、この2つの作品の中の悲劇が生まれる。

 

『僕たちは希望〜』と『希望の灯り』がリンクするのは、そんな歴史の偶有性の中で葛藤する人々と、自己自身の物語である。

 

 

 

 

参照文献


 

ドミナント・ストーリーに対するオルタナティブ・ストーリー、もしくは問題の「外在化」については下記の書籍が参考になるだろう。

 

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