映画批評『プライベート・ウォー』メリー・コルヴィンの実存

2019年9月27日

メディアの敗北、戦争中毒、PTSD。戦場へ立ち向かう人物が描かれる際のキーワードをひとつずつ抽出してみたところで、恐らくこの作品の本質はちっとも伝わらないのだろう。しかし、日常性を支えていたはずのある種の感覚がすっかり搾り取られてしまったという程に、この『プライベート・ウォー』という作品は、内省的な意味においては、とてつもなく過激な作品なのだ。

 

 

 

 

自己の日常性としての感覚は、その場所・その時間にではなく、時にその人の持つ強力な志向性によって決定される。

 

ふたつの映画を想起する。イラクでの爆弾処理班を描いた『ハート・ロッカー』では、アメリカに一旦は戻った主人公がカートを押しながらショッピングをしているシーンがある。しかし、そこは不穏とまではいかないが何故か色あせた雰囲気に包みこまれている。無論、そのような描写によって彼の行く末は暗示されていた。あるいは韓国の光州事件を描いた『タクシー運転手』。民衆蜂起の現場にジャーナリストを送り込んだ運転手が地元へと戻りひと仕事を終えた気分で食事をしていた。しかし、彼がニュースをふと目にしたときに、突如日常性としての感覚が揺らぎはじめる。彼らのかつて抱いていたはずの日常はどこへいったのだろう。

 

シリア内戦

 

物語の主要な舞台であるシリア内戦について整理しておこう。2010年12月、チュニジアで独裁政権に対する反政府運動が起こった(ジャスミン革命)。その流れは翌年エジプトなどへも飛び火し、いわゆる「アラブの春」と呼ばれる民主化運動がアラブ諸国で拡がった。1971年から父から子へと世襲による政権が続いていたシリアも例外ではなかった。紛争が大きくなるきっかけは、壁に「次はあんたの番だ、ドクター」と落書きした少年たちに対する治安当局の拷問だった。現大統領であるバッシャール・アル=アサドは元は眼科医だったのだ。こうして市民によるデモは本格化し、アサド率いる政府軍と反政府組織による内戦がはじまった。物語のポイントとなる都市ホムスは、当時反体制派の拠点であった。ちなみに過激な運動で知られるIS(イスラム国)は、このシリア内戦のどさくさにまぎれて拡大し、2014年、自らを「カリフ国家」と宣言した。

 

同マシュー・ハイネマン監督作品である前作のドキュメンタリー映画『ラッカは静かに虐殺されている』では、シリアのラッカを首都と称するISに立ち向かうあるメンバー達の姿が映し出される。ISによる阻害から逃れる彼らはトルコやドイツへと移住し、シリアに住む仲間達からSNSを駆使して現地の情報を取得、ネットを通じてその惨劇を全世界へと発信していた。その運動名が「Raqqa is Being Slaughtered Silently」であり、その作品のタイトルにもなっている。彼らの目的は、迫害されている一般人の現状を伝えること。ISは街中のパラボナアンテナを取り外すといった行為によって外部への情報を遮断しようとし、また自身のメディアを通して虚構としての現実を伝えようとしていた。メディアの敗北は倫理的に決して許されぬ状況だった。

 

追体験と実存

 

ドキュメンタリー作家であったマシュー・ハイネマン監督の<外部へ伝える>という志向性が、メリー・コルヴィンを演じるロザムンド・パイクの紛争追体験としての手法を際立たせていたのは言うまでもない。メリー・コルヴィン本人の取材映像を元にして、映画物語内での現地の人に対するインタビューも同じ構図で撮られていたのには、今思い返してもやはり特出すべきシーンであったし、また子供の死に対面し泣き叫ぶ男は、本当に甥を紛争で亡くしてしまった人物であったと云う。

 

ロザムンド・パイク自身の演技による体験、そして、こうして出来上がった作品によって、観客が更に歴史を追体験するという二重性に直面した時に、『プライベート・ウォー』という題名の特異さに納得してしまう。より抽象度を高くして、伝え知るという行為が、大きく人間の実存と尊厳に関わってくるということがこの物語よって照らし出されるからだ。物語とドキュメンタリーとの差異は、実存的な見地においては全くフラットなものでしかないのだ。もしくは日常と普段は私たちから遠く離れているはずのあのニュースの向こう側はどうだろう。メリー・コルヴィンのトラウマは、いまだにこうして映画を観る者にとっての日常をしばし混乱させてしまう程の力を持つのだ。

 

 

 

 

参照ページ


 

特集「映画『プライベート・ウォー』から見る戦争とジャーナリズム」
マシュー・ハイネマン×野中章弘×荻上チキ
▼2019年9月5日放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)

 

ザテレビジョン

完全再現! 伝記映画と実際の記録映像が重なる2作品のシーンを公開

 

歴史や内戦の経緯を辿るには、高橋和夫氏の書籍は分かりやすい。

中東から世界が崩れる イランの復活、サウジアラビアの変貌 (NHK出版新書)

 

内戦の経緯を大まかに理解した上で読むと良い。どの書籍よりもシリアに住む人々の内情としての臨場感に満ちていた。なぜ伝えるのかではなく、彼ら彼女らの現状を<いかに伝えるか>という態度の声明を読み取るべきだろう。

【増補版】シリア 戦場からの声

 

 

 

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