『恋人たち』橋口亮輔監督/独白からの幸福論

2015年11月23日

恋人たち

 

 

 

自らを同性愛者だと告白し、過去の体験の断片を織り交ぜながらも、その意味に悶えまた思考しようとしていく橋口亮輔監督。僕は過去作である『渚のシンドバッド』『ハッシュ!』『ぐるりのこと。』の復習を済ませ、7年ぶりの彼による長編ドラマを観るために、自宅からちょっと離れたシネコンへ向かってただひたすらチャリンコをこいで行く。

 

 

 

 

この物語は独白の集まりによって描かれている

 

通常、独白(モノローグ)は対話(ダイアローグ)と切り離されて配置される。しかし、橋口監督の作品は少々違う。相手に向かって話しかけているつもりの主人公の顔がクローズアップされると、長回しの作用によってまるで言葉が独り言のように変化していく。その逆もありきだ。独り言のはずが誰かと対話しているような錯覚に陥っていく。自分が話すのを聞くといった感じに、登場人物たちは体験の意味を反芻し心情を吐露していく。

 

私達は物語の中に生きている、という考え方を根底にしたナラティブセラピーという心理用語がある。これは隠れた意識を探りだそうとするのではなく、患者によって語られる言葉を意識の変遷として目の前の現実に紡ぎだそうとする姿勢、と言っても良いだろう。橋口監督作品の登場人物はとにかく良くしゃべるが、そこにはナラティブセラピーとしての志向が常に表れていると私は感じた。事実、彼の作品の中には回想によって心情が描かれるシーンはほとんど見られない。過去という回想ではなく、いまここにある主観と共に出来事に意味付けをしていこうとする態度そのものが描かれる。これは過去は未来に対する原因ではないという臨床心理の潮流にも重なるだろう。

 

特徴的なのは彼ら・彼女らの織りなす会話は、筋と全く関係のない話ばかりだということだ。偶然性を優先し、観客に対して、ひとつの目的として作られてしまうような物語をあえて拒否するような会話がある。長回しの作用が独白と対話の境界を曖昧にさせる。それゆえに、セリフが最後まで明示されずにプッツリと遮断されてしまうようなシーンがとても印象的だ。

 

ナラティヴ・セラピー──社会構成主義の実践

 

 

『ぐるりのこと。』では幼児殺傷事件やオウム事件を喚起させるような社会の世相は、あくまでも主人公たちの生き方を描く上での背景として存在していたが、『恋人たち』ではある登場人物の日常に、より浸透する苦難として直接的に描かれる。日常の中での救いをテーマにした作品において、そのような具体的な描写に好き嫌いが別れそうだが、登場人物たちの独白によって物語を構成していこうとする技巧はやはり特異な部類に属するだろう。橋口監督は演技のワークショップから主演者を選んだというが、演劇的な要素が随所に現れているような作品でもある。

 

 

どんなに対話しようとも伝わらないこと

 

例えば『渚のシンドバッド』で、ある男子が女子に告白するシーンがある。しかし、その女子は男子に対してもっと相手のことを考えて行動してよと怒る。自己満足だけの告白は相手を傷つけることもあるだろう。けれどもその対話に着目すべきことは、『渚のシンドバッド』の中心テーマである「ある三角関係」の構図を見ることでもある。その三角関係がどのようなものかはここでは述べないが、たんに自分の行為だけが過ちではないと感じたような時に、人はどのように思い行動するのかが問題なのだ。直接的な罪だけがテーマとなるわけではない。不条理は、むしろ気付かぬ関係の中から生まれてくるということもありうるからだ。

 

『恋人たち』では主人公同士の関係は物語としては希薄だから、そのような「関係の不条理」としての演出に少し物足りなさを感じるが、それでも「何の罪科もないのに痛い目に遭う」(公式サイト「監督インタビュー」)という人生に起こるべく最悪な関係性 -特に弁護士の四ノ宮において- をとてもうまく表現していたなと私は思う。群像劇が感動的になるのは、そのような関係性の中で、多数の視点や会話が、ひとつの社会を構成していくような瞬間に出会えるからだ。それははじめから苦難の原因として語られるような社会とは違う。私たちは社会に生きるが、社会を構成しながらも生きていく。

 

 

独白からの幸福論

 

結局、物事を原因として見るのか、または目的論的に見るのかによって、人生や生活に対する意識は変わっていくのだ。自分の語りを本気で相手にぶつけなくてはならないような時に、さらば〈ろくでなし〉よ!と言わんばかりに過去や世間からの決別を突きつける。短期的な感情としての幸せ(happiness)から人生の幸福(well-being)に到るまでの過程、自分が幸せだと思える瞬間を、この物語のどこかにきっと見出だせるはずだ。独白が社会の物語に溶け込む瞬間は、生きていれば必ず訪れる。それゆえの、対話の無秩序さ。

 

夢を追いかけようとする主婦がお気に入りのパンストを履いて鏡に映る。草むらで放尿しながら見える何気ない風景。自転車というよりもチャリンコにまたがる彼女の姿。アツシお手製の不味そうな?カレーパン、街中のバカップルに対する眼差し。またはある男のペンに対する独り言。それら汚さやいい加減さをあざ笑っていたつもりの風景が、突然奇妙な現実となって自分にやってくる。 END

 

 

 

『渚のシンドバッド』(1995年)

 

『ハッシュ!』(2001年)

 

『ぐるりのこと。』(2008年)

 

 

追記


 

宇多丸 週刊映画時評 ムービーウォッチメン

 

 

2015年 第89回キネマ旬報ベスト・テン
日本映画ベスト・テン第1位

 

 

浅田彰
『Foujita』はなぜ映画としても伝記としても失敗なのか
からの以下抜粋。

初期作品では切実でありながら滑稽な修羅場の表現などに見るべきもののあった橋口亮輔が、つまらない人間たちのつまらない関係をひたすら真面目に描いた『恋人たち』 〜省略〜

演劇やダンスのワークショップに付き合うことで新たな表現を獲得したのだと言うが、劇映画の出発点は演劇の鈍重さからの解放ではなかったのか。

確かに僕は橋口監督の映画に演劇的な手法を感じていたが、演劇の鈍重さからの「解放」という歴史視点もあるのね。ただし僕の歴史にとって、その手法は全くの「新しさ」であった。

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