「音楽映画ベストテン」企画参加/ディタッチメントな音楽の世界へ

2015年12月7日

グレン・グールド

 

 

毎年恒例となっている「男の魂に火をつけろ!」の映画ベストテン企画に参加する。今年のテーマは「音楽」だ。ワッシュ様よろしくお願いいたします。

 

私が選んだ音楽映画ベストテンは「作中の人物たちに音楽が聞こえているもの」も含めて、以下「順不同」の10作品です。

 

セブン (1995年 デヴィッド・フィンチャー監督)
いちご同盟 (1997年 鹿島勤監督)
グレン・グールド 27歳の記憶
 (1959年/日本初公開1999年 ロマン・クロイター/ウルフ・ケニッグ監督)
戦場でワルツを (2008年 アリ・フォルマン監督)
ダンサー・イン・ザ・ダーク (2000年 ラース・フォン・トリアー監督)
ショーシャンクの空に (1994年 フランク・ダラボン監督)
バーバー (2001年 ジョエル・コーエン監督)
独立少年合唱団 (2000年 緒方明監督)
SR サイタマノラッパー (2009年 入江悠監督)
セッション (2014年 デミアン・チャゼル監督)

 

 

<社会>と<世界>

 

カール・ポパーは世界を3つに分類している。第一は物理そのものとしての世界。第二は人間の心の中の主観的な世界。そして第三は、主観的な世界によって生み出された客観的知識としての世界だ(ポパーの3世界論)。

 

また、人間の感情を軸とした分類もここで引用したい。それは、コミュニケーション可能なものの総体<社会>と、ありとあらゆるものの総体としての<世界>である(宮台真司『絶望 断念 福音 映画』)。

 

 

絶望・断念・福音・映画―「社会」から「世界」への架け橋(オン・ザ・ブリッジ) (ダ・ヴィンチブックス)

 

 

七つの大罪」をモチーフにした映画『セブン』は、人間の欲望や堕落といった感情を描いている。事件を追う刑事がすでに閉館した図書館へやってくる。警備員達はほっと一息ついているが、そんな彼らに向かって刑事は皮肉を込めて言う。「本に囲まれて知識の山があるというのに、一晩中ポーカーとは…」。人間の主観は知識となって書籍という客観物に置き換わる。音楽もまたしかりだ。しかし、ありとあらゆる<世界>の中で、絶望や救済はどの分類に位置するのだろうか?

 

How’s this for culture? バッハ「G線上のアリア」

 

 

いちご同盟』はいたって真っ当な実存主義的青春映画だ。厭世観を抱いた少年と病と戦う少女が出会う。原作は同名の『いちご同盟』(1990年)。作者である三田誠広は『僕って何』(1977年)という作品によって芥川賞を受賞している。また『いちご同盟』は、『月刊少年マガジン』に連載されていた漫画『四月は君の嘘』(2011〜2015年)のオマージュ作品としても知られている。

 

 

      いちご同盟 (集英社文庫)  僕って何 (河出文庫)

 

 

『僕って何』が描く世界は、学生運動の中で共に過ごしてきた仲間達から、一歩遠のいてしまったような感覚を持つ青年の話だ。その物語には、<社会>の中の「僕」の位置付けを、気付かぬ内に<世界>のレベルによって捉えてしまったような青年の孤独さがうかがえる。『いちご同盟』にはそれほどまでに歴史的な社会背景は存在しない。けれども思春期特有の<社会>の枠組みの中で、命の残酷さに触れると同時に芸術の観念に悶え、<世界>の存在をまだ想像できぬ少年の姿がある。ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」の使われ方も美しいが、ベートーヴェンの「ピアノソナタ第15番」と共にオーバーラップされる少年の記憶によるカットが、特に素晴らしい。ピアノの音色によって<世界>であったはずの風景が、突然意味のある少年の<主観>へと置き換わる。

 

いちご同盟(1997年 鹿島勤監督)
残念ながらもはやレンタルで探し出すことは難しい…。

 

 

グレン・グールド 27歳の記憶』の原題は『GLENN GOULD OFF THE RECORDS / ON THE RECORDS』。実在するピアニスト・グレン・グールド(1932〜1982年)のドキュメンタリー作品で、前半は郊外の別荘でゆったりと過ごす彼の姿、後半はニューヨークのスタジオで「イタリア協奏曲」(バッハ)の演奏を録音するシーンによって構成されている。ピアノを弾きながらハミングするグールドのお茶目な姿。しかしその反面、64年を最後にコンサートからは一切身を引くことになる、ある種、孤高的なイメージとしてのギャップがある。『羊たちの沈黙』や『ハンニバル』で流れるレクター博士お気に入りの「ゴールドベルク変奏曲」(バッハ)は、このグレン・グールドの演奏によるものだ。また彼の弾くバッハの「平均律」は、人類の作り出した傑作として今もなお飛び続けているボイジャーによって宇宙の彼方へと運ばれている。

 

「ゴールドベルグ変奏曲」を弾く晩年のグレン・グールド。

 

 

ディタッチメントな音楽の世界へ

 

この映画のパンフレットに寄稿されている作家・島田雅彦のコメントの中で「ディタッチメント」という言葉を知った。その意味は「離脱、離反、距離を置くこと、突き放すこと」。グールドは自らによる演奏をそう呼んだ。夏目漱石の『草枕』はグールドの愛読書であり、その中の「非人情」という言葉が英語で「ディタッチメント」と訳されていたらしい。物語なき<世界>に対して、不穏な感覚としての自分を覆い隠してしまうのではなく、ラディカルな肯定感において自己を突き放し、また向かい入れること。彼の音楽は、そのようにして<世界>に対するアプローチとしての機能を果たす。

 

 

戦場でワルツをではそのディタッチメントな感覚がまさに心象的な風景となって描かれる。アリ・フォルマン監督自身によるレバノン内戦の体験を綴ったこの作品は、ある一人の青年兵がなぜ戦ったのかを自問し究明しようとする記憶の物語でもある。今年日本で公開された同監督作品『コングレス未来学会議』によって、その強烈な作家性に圧倒されたシネフィルも多いはずだ。<社会>はあやふやで“まるで”アニメのような輪郭でその世界が形成される。視覚や嗅覚といった感覚を他人と共有していることをあえて際立たせるかのように現象学的な世界が導かれる。彼らの体験もまた眩い色彩となって構成される。そのような記憶が映し出される過酷な戦場の中で、聞こえるはずのないショパンの「ワルツ第7番」を背景に、機関銃を乱射しながら踊る兵士の姿が描かれる。

 

戦場でワルツを(2008年 アリ・フォルマン監督)

 

 

ダンサー・イン・ザ・ダーク』には、自らの意志によって全ての体験を創りだすような女性の姿がある。彼女もまた先の兵士と同様に、<社会>と<世界>の境界で踊り出す。見えるはずのない主観がミュージカルとなって鮮やかに映し出される。これをたんに孤独で独断的な視点だと決めつけるのはもったいない。これもまたディタッチメントな態度の表明と見なすべきだろう。『ショーシャンクの空に』で主人公のアンディや囚人達が空を見上げて聴き入る「フィガロの結婚」を思い出してみてもいい。彼ら彼女らからは決して奪えぬ自由が存在するはずだ。もしくは『バーバー』において、無口で実は何の欲望も持たないような男が、なぜ少女の演奏するピアノの音色に心惹かれるのか? 答えはあなたの体験の中にもきっとあるはずだ。「何一つ外的な現実が変わらなくても、人はより強く新しい現実を発見できる」(十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』P161)。

 

バーバー(2001年 ジョエル・コーエン監督)
ベートーヴェンのピアノソナタ( 第8番「悲愴」)を奏でる少女は若がりし頃のスカーレット・ヨハンソンだ。

 

 

追記


 

独立少年合唱団 (2000年 緒方明監督)

 

強烈な<社会>の影響下で、少年たちの実存が試される。1970年代の全寮制中学を舞台にしたこの作品はとにかく暗いが、感情の劣化問題のみならず、思春期における感情の複雑さという点において、観ておくべき日本映画の一本だと思う。残念ながら『いちご同盟』と同様にレンタルで探し出すのは難しい…。

 

 

SR サイタマノラッパー (2009年 入江悠監督)

 

長回しの作用がこれほどまでに感情を吐露するという点において、パッケージからは全く想像もできないような涙を誘う。『恋人たち』のレビューでも記述したように、短期的な感情としての幸せ(happiness)、つまり目の前の欲望から、人生の幸福(well-being)に到るまでの過程において、<社会>の苛酷さがユーモアと共に見事に表現されていると思う。監督らによるポッドキャストもおすすめだ。

 

 

 

セッション (2014年 デミアン・チャゼル監督)

 

レビューはこちら→『セッション』はヒューマニズムの何を伝えるか?

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