[2015年]文科系のためのミニシアター映画ベスト10

2016年1月2日

マミー

全く意識することのなかったある<世界>の中で、人の内面が突如現れる。何気ない食事の中で、あるいは懺悔室の中で。その世界観が言葉によって語られぬほどに、感情を知ることのできる喜びは加速する。

 

自分が感じてしまったある背後の世界を、他人と共有したいという思いを込めて、僕はそれらの作品を文科系映画と呼ぶ。そういう意味で『マッドマックス』は文科系映画としても完璧だ。単純化された物語の中にも、外部の世界は確かに存在するからだ。そのような背景としてのコンテキストがあるからこそ、解釈する自己の世界も確立される。

 

 

 [2015年]文科系のためのミニシアター映画ベスト10(日本公開順)

薄氷の殺人 (ディアオ・イーナン監督)
ジミー、野を駆ける伝説 (ケン・ローチ監督)
きっと星のせいじゃない。 (ジョッシュ・ブーン監督)
パレードへようこそ (マシュー・ウォーチャス監督)
Mommy/マミー (グザヴィエ・ドラン監督)
私の少女 (チョン・ジュリ監督)
サンドラの週末 (ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督)
グローリー/明日への行進 (エイヴァ・デュヴァーネイ監督) 
オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分 (スティーヴン・ナイト監督)
恋人たち (橋口亮輔監督)

 

 

トラウマをぶっ壊せ

 

映画は基本トラウマの構造を持つ。正統的なトラウマ映画としては『アメリカン・スナイパー』はとても面白かった。とはいえそれはやはり娯楽的な作品だ。過去の出来事に対する不可解さという点においては何となく物足りない。だからトラウマ的な視点、言い換えれば解釈不可能な世界が “存在する” のかも知れないという視点に立てば、薄氷の殺人はとてつもなく印象的な作品となる。日常の中の不安を芸術などによって昇華させるような時に、ファム・ファタールのような美しさが求められる。未知ほど魅力的な世界はないのだ。その中でいかに幸福を感じ、倫理を考えることができるのだろうか?

 

デタラメな<世界>は、政治的な不条理や動機不明な犯罪、そして突然の事故としてもやってくる。社会学者の宮台真司はそんな<世界>を生きるすべを<感情>という見地から説いている。それはどんな手法か?

 

「世界」はそもそもデタラメである (ダヴィンチブックス)

 

僕なりの視点で結論から言うと、それは「空を見上げる」ということだ。はじめから理想の世界を想定してはいけない。いわゆる真面目系クズたちが挫折する大きな要因は、自分の理想を追求し過ぎる点にある。まずは自分が変わることを念頭におくことだ。いわば自身の「入れ替え可能性を問う」ために、感情としての土台がある。自分が変われば周囲への見方も変わっていく。そのような思考を体験したいのならばきっと、星のせいじゃない。は必ずあるヒントを与えてくれる。「空を見上げる」ということは、自分とはかけ離れた他者を想像してみることでもある。

 

「キミが俺でも同じような行動ができるのか」入れ替え可能性を問う。

 

 

アイデンティティの伝播

 

2015年は広義の意味でもアイデンティティとしての年でもあった。マイナンバーからシリア移民の問題まで数多くのニュースが流れていた。LGBTという言葉も多くの媒体に浸透していたように思われる。僕がその言葉を知ったキッカケとなったのが『パレードへようこそ』という作品だ。実在したLGSM(炭坑夫支援レズビアン&ゲイ会)と炭鉱労働組合たちによる友情が描かれている。イギリス映画である『ブラス!』『フル・モンティ』『リトル・ダンサー』の炭鉱三部作としての見方も面白い。プロットの基本はこうだ。自分の自分らしさを主張していくことの正当性を周囲にどう伝播させるか。やはり観ていて面白いのは、個々の人物たちの感情がどのような出来事の中で引き起こされ、また爆発し、思いがどう感染していくかである。

 

 

『グローリー/明日への行進 』は「I Have a Dream」以降のキング牧師による奮闘の歴史を地味に描いた作品だ。地味さゆえに、感情の伝播に焦点が当てられている。『ジミー、野を駆ける伝説』も同様だ。アイルランドの紛争を描いてきたケン・ローチ監督によるこの物語には、ジミーという主人公の思惑以上に、彼を“慕う”周囲の者たちによる共感の提示に、より強い美意識を感じ取ることができる。たとえ敵対していたとしても、相手の倫理を共有することの可能性を知ることができる。

 

そのような感情の共有が、自身や周囲の者をも巻き込んでいくという視点にかけては『サンドラの週末』も忘れがたい。会社から解雇を言い渡された女性が、その無効性を求めるために各同僚の家を訪れていく。監督のダルデンヌ兄弟による作品には、とりわけ『ロゼッタ』や『少年と自転車』のように、人間の個人としての心情とは裏腹に、その背景として多くの社会的テーマが組み込まれている。主人公の顔に映る何かしらの感情が、物語には描かれていない外部の<世界>への想像をかき立てる。生きるすべとしての圧倒的な土台がそこにはある。

 

 

 

 

経験の条件

 

ちょっとした会話や仕草の中に普遍的な人間の様相を読み解きたいという欲望がある。上目遣いは誘い文句だというような居酒屋トークはあまりに下世話な話だとしても、人間の行動を映し出すフレームの中に何かしらの意味を求めてしまうということはよくあることだ。俳優でもあるグザヴィエ・ドラン監督の『Mommy/マミー』は、そのような形式と感情の間を考える上で、とても興味深い。

 

 

ADHDである息子とその母親、そして向かいに住む休職中である女性との間にある感情の起伏が生まれる。実際には存在しない法律が施行されている架空の世界。しかし、その世界は過酷であまりにも現実的だ。あくまでも日常会話のやり取りのみで、深淵な思想など言わんするその作品の姿勢は、まさにスタイルとしての画面作りともマッチする。たとえ、それら手法にあざとさを感じてしまったとしても、人間たちが寄り添う世界というのは、たんに優しさだけを表現するだけでは物足りないということが良く分かる。それは独白という形式を、映画を観る者への経験として与えられる恋人たちも全く同じである。

 

『マミー』公開時に本編前に上映されたミニドキュメンタリー

『グザヴィエ・ドランのスタイル』

 

もはやニヒリズム映画の代名詞?であるイ・チャンドンによるプロデュース作品『私の少女』。ペデュナ扮する警官が、厳しい現実の中で生きる少女を守るがゆえに生まれる誤解。そこに描かれているのは優しさが招く不条理の世界だ。プラトニックな世界というのは、理想を追求するのみにあるのではない。それは、いま住む社会がデタラメな<世界>と表裏一体であることを再認識するための、未知としての世界だ。

 

 

『オン・ザ・ハイウェイ』も同様で、その物語には幸福追求型の行動は微塵もない。むしろ、現実の罪をひたすら追及していくような主人公の姿に心打たれてしまう。個人の経験が経験として活かされることはともかくとして、この作品は、人間の幸福を目指すはずの合理さを否定して、はじめて物語が現実へと近づいていくような稀有な構造を持つ。これもまた未知な世界に対する欲望だ。経験は<世界>のどこにある? トラウマ・アイデンティティ・そして感情の伝播を辿ってきた中での問いかけは、2016年も引き続く。

 

 

経験論を否定する『オン・ザ・ハイウェイ』

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